ハンプティのブログ

ハンプティ・ダンプティのように、いつもずっこけぶりを発揮しています。

ダンプティ親父の美濃思い出日記-1

自動車免許を取得するようにとの同居人ハンプテイからの強いお達しである。

こちら様は、これまで30年間もの間、ハンプテイに運転を任せて、何の支障はないのであるが、ハンプテイは、車の運転が如何に大変なのかを知ってほしいらしい。

それに、「これからは、夫婦が共に運転することも必要だ」とか理屈をつけて、「60歳になると自動車研修時間の安心パツクという利益が得られなくなる」から等と、最もらしいことを言われて、渋々東陽町の自動車学校に行くことにあいなった。

妻に言われるままに、マニュアルコ-スとし、我が手と足のバランスガが悪く、なかなか工程が進まず、教官に、「何でオートにしなかったか」と、いわれる始末。

「何故」といわれても、私は、」家内のマニュアル人間で、言われるままにマニュアルにしました」とお答えした。

「暗にオートに変えなさい」と、言わんばかりであるが、そこは、回数を重ねて何とか、仮免も本番も試験の強さか一発で合格とあいなったが、安心パックのお陰で10万円も戻ってきたということは、最短より20回も余分に練習したことになる。

「合格しても練習が大事です、実家の岐阜まで東名高速を利用しての車の旅をしましょう」と、いわれ、ちょっぴり怖いが、そんなことナンプには、いえず、出かけることと、あいなった。

兎角、S字カーブでの恐ろしいこと、高速の入り口と出口での、対向車と衝突でもしようものなら、命がないとおもうと自然にスピードも鈍るもの、女からは、「流れが悪くなるから、もっとスピードを」と、叱咤されて、ハンドルさばきの腕もますます硬くなるばかりである。

夏風や ハンドル裁き 汗じむ

道脇の花畑など見る余裕もなく、ただただ、運転指導の尿暮のお叱りに怯えての旅である。

ハイウエイ 卵波も遠し 腕硬し

やっと、牧の原での休憩で、ほっと一息である。

牧の原 サービスエリア 新茶かな

旅も小牧あたりにくると、息吹山の雪をみることが出来、やっと美濃だという実感、

やっと、俳句もするすら出てくる余裕、

美濃帰り 夏の息吹を 身に浴びて

ハイウエイ 道のかなたに 息吹かな

一寸緊張が、続いて、お腹もグーグー

「どうでも良いけど、先ほどから、コンビニで買った饅頭をむしゃむしゃ、この際、ダンプティの雁首に縄でも縛って、食べたものが胃の中に、入らないように締め上げてあげなくては」と、美濃の鵜飼にかこつけて、ハンプテイ、残酷なことをおっしゃる。 

ダンプテイが稼いできた給料を僕の懐に入らずに、全部ハンプテイのものにする鵜匠みたいなふざけ様、ダンプテイにとっては、

板垣の 自由はいずこ 鵜鳥かな

ですよ!

そういえば、板垣退助は、この岐阜城の麓の公園での講演中に暴漢に襲われた時の一言は

板垣死すとも自由は死せず

でしたね、と言えば、ハンプテイ、

「ダンプテイも死んだ後には、存分に自由にさせて上ますわ」

休みある 鵜舟これから 長き冬 右城暮石

それに生きている間でも、錦糸町単身生活の間には、随分と自由にさせてあげたじゃないですか、

これ以上の、あなたの自由にさせたら、身を滅ぼすことに なりますから、しっかりと鵜匠のようにハンプテイをコントロールさせて頂くわ」

と申されるが、ダンプテイも疲れ鵜状態でさらに首に輪を付けられての不自由の身とは、情けない。

つかれ鵜の 声々鵜匠 ききわけて

 橋本多佳子

それに、このまま、好き放題の食生活では、

糖尿病やら腎不全になって、惨めな境遇になるわ、と、おっしゃる。

おもしろうて やがて悲しき 鵜飼かな  芭蕉

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そう言えば、中学時代のダンプテイの友人に、長良川の鵜匠の息子が居て、代々鵜匠の子供は鵜匠にならなければ ならなくて、憲法は、職業の自由を認めているのに、僕の場合は、職業選択の自由がないと小言をいっていましたね!

文部科学省が認定するのは、代々 受け継がれて来た山下家の杉山家の鵜匠の長男しかなれないという話を聞いたことがある。

鵜飼ももの悲しいけど、それを操る家族にも悲しい物語があるわけです。

ところで、物悲しいのは、鵜飼の他に盆踊りです。

宿下駄に なにやら悲し 盆踊

と、発句を出すと、

夫婦ながらに 夜を待つら

ですね」と、ハンプテイの付け句が面白い。

まあ、今度は、夫婦ながらと、長良を盛り込んでの夫婦仲睦まじき素晴らしい連句を有難うございます。

それにしても、このハンプテイ、夜に何を待っていらっしゃるのか、意味深です。

松の木ばかりがまつじゃない あなたを待つのもまつのう

ダンプテイもハンプテイの期待に応えて

今年の盆は、郡上踊りの徹夜踊りに備えての体力作りに励んでおります。

若い頃に、郡上踊りで鍛えた踊りの披露でございますから今宵も張り切っております。

すると、ハンプテイも、「私も郡上八幡生まれの育ちだから負けられませんわ、幼い頃は、盆になると、毎日のように踊っていましたから」

宿下駄に なにやら嬉れし 盆踊り

宿下駄に 期待わくわく 盆踊り

期待わくわくとしたのは、

郡上踊りの伝統では、歌垣の風習であったからでして、

郡上八幡城下盛衰記によると、和良村の身やでは、神社の配電があったのは、九龍宮と祖師野の宮で、こんな歌の文句でその風習が残されています。

踊り見るなら祖師野の宮よひと(女)を見るなら九龍宮

踊る仲から姫引き出いて語り掛けたら妹よ妹よ」

この時ばかりは男女の房事も認められていた歌垣の宴であったとか(岐阜県の歴史、松田之利等)

どんな男女の出会いがあるかと浮き浮きと踊りの出かけたわけですね

ところで、郡上には、もう妻の実家もありませんから、宿をとることになりそうだけど、今宵の宿は、備前

それにしても、ハンプテイの盆踊り俳句は、浮き浮きした気分が伝わってきて、名句ですね、それでは、ダンプテイも

カラランと 下駄も疲れて 盆踊り

かにかくに 郡上踊りの 夜長かな

ところで、踊りの他の楽しみは、夏の宿の定番、友釣りで吊った鮎の塩焼が格別

友釣りの 鮎の料理は あれやこれ

しかし、取り立ての鮎の塩焼きやら何やらで、忙しく、ビールの後に出てくる料理が遅いので、

鮎の宿 おあいそよくて 飯遅し  山口青頓

外から聞こえてくる盆踊り歌は、

おばばドコイキャルナー三升樽サーゲテソーラバエヒュルヒュルヒユ ヒュルヒュルヒー嫁の在所に ささ孫抱きに

と、風情がある。

孫逢いに おばば旅行く 郡上踊り

そういえば、ダンプテイのお婆さん、「孫に逢いたい」と、言って、毎年1か月程、神奈川の我が家に、遊びに居ていたのが懐かしい。

餡の前ぶれもなく、「来たわよ」と、夜更けにドアを叩く人がいる。

孫逢ふと 出かけた あの婆 姨捨

なんて、田舎で言われていたとかいないとか?

これは冗談ですが、田舎も商売をしていたから兄嫁さんも大変、たとえ一か月の間でも舅さんが居ないと気休めになったと思いますね!

暫くは 春もうららか 嫁しゅうと

それに、ダンプテイは、仕事にかまけて田舎に帰郷するのは、年に一度くらいになってしまって、母からは

月も出てて闇に暮れたり姨捨に なにとて今宵訪ねきつらむ 更級日記

なんて、言われかねない。

ところで、郡上おどりだけど、

お婆ドコイキャネナー三升樽サーゲテソーラバエヒュルヒュルヒュー

と、哀しいメロデイがあるかと思うと、一変して

七両三分の 春駒 春駒――

なんて、テンポの速い踊りが登場すると、いきなり心は浮き浮き気分!

これは、この辺りの馬市の掛け声だそうで、

馬市に来て、女郎に惚れてしまって、

郡上のナー八幡でていくときにゃ 雨も降らずに袖絞る

と、郡上節で詠われるが、馬売り男との別れで女郎が袖を絞って泣いてくれるとは、有り難いお国柄

美濃は うだつの上がる街、昔の風情が残る街

こんな街中での昔ながらの郡上踊りが踊り継がれていました。

老いぼれの身は、ただの盆踊りでも、最初は元気ですが、夜が更けると踊りに疲れてヘトヘトで地に伏してその日は、お疲れ様!

と,情けない。

盆踊り 下駄は疲れて 脱ぎ散らし

「ところで、郡上まで出かけなくても東京青山で郡上踊り祭があり、多くの岐阜県人が踊りに、集ってくるそうです。

というのも、:郡上のお城の殿様が青山家で、菩提寺がこの青山にあったらしく、この地が青山となったとかで、その名残を残すのが、青山郡上踊りです」と、郡上出身のハンプテイが自慢する。

何しろ、郡上藩は、明治維新では、新政府樹立における討幕に大変な貢献をしたとかで、青山家は、踊り大臣になって、青山辺りの御屋敷を手に入れたとか

今では地価が高騰して、それこそ土地成金ですからね、

ところで、盆踊りは、ビルの谷間ではなくて、山懐の茅葺の家、それに、やまの麓に月がないと情緒がでてきません。

高層ビルに、隠れて、月が見られませんから「月が出た、出た月が出た」 には、ならない。

と、ダンプテイ

しかし、そのあとの発言は、勇み足でした。

ハンプテイは、郡上八幡で、瓦ぶきの家が無い茅葺(かやぶき)育ちだから

郡上八幡 茅葺(かやぶき)育ち かわらないのはママのムネ,

と、ペチャパイの短歌を披露したから大変です。

「うだつの上がらない男の癖をして、こんな身体的な侮辱は,許されません」

こんな親父は、こんな歌を返球してあげますわ

鮎の香や 美濃はうだつの あがる街

上がらないのは 親父のチンボ

と、大変な暴走歌となる

岐阜に到着して早速、岐阜公園長良川を散策

長良川流れて過ぎし故郷は

  母亡き里となりにけるかな

桜咲き我が大望がかなうとも

  今亡き母にいかで語らん

と、何となく石川啄木のような歌が出来ました。

岐阜公園には、板垣退助が遭難したところで、板垣が襲われたとき、「板垣死すとも自由死なず」と、板垣が言ったとか、それに鵜飼での鵜鳥の不自由さを思い出して

板垣の 自由はいずこ 鵜鳥かな

この公園の句碑には

闇中に 山ぞ聳立つ 鵜川かな

と、ある。

漱石の弟子の河東碧桐の作とのことである。

鵜かぐりや 音美しき 金華山 大野伴睦

これは、大野伴睦のものだとか、句の意味に苦しむが、そこは、岐阜が伴睦さんにより新幹線が停車した大切なお方であるからこんな句でも尊ばれるのかと素直に句評が出来ないのがダンプテイの悪い癖。

晩僕さんに負けずと一句

長良川 美濃路の雪を 寄せ集め

出陣を待つ静かさや鵜飼舟

ホイホイと 鵜匠の叫び 今いずこ

金華山の山頂の城から齋藤道三も鵜飼をどのような気持ちで眺めていたことであろうかと思うが、誠に見晴らしの良いところに城を構えたものである。

道三も 砦で愛でし 鵜川かな

もののふの 夢は彼方の 鵜川かな

鵜匠が鵜鳥を巧みに操り、魚を捕らえる様を観察して、道三は、天下統一の夢をみていたのかとつい感慨にふけてしまった。

なお、女房の命に従い嫌々自動車免許を取得したわけであるが、急遽高松への赴任と決まり自動車なしでは生活出来ぬところ奥様に感謝申し上げ奉り候である。

久しぶりに、ダンプテイ夫婦は、チイ家族と共に岐阜まで、東名高速を飛ばして帰ることとした。

ロンは、初めての美濃路の旅となるが、勿論、運転は、ドライブ歴50年のハンプテイ、ダンプテイは、運転が身授受だと、運転を任せてもらえない、肩身の狭い旅ある。

今日の話題は、ダンプテイとハンプテイが生まれ育った美濃といたしましょう。

ダンプテイは、刃物の街、それに、円空や俳句の惟然の弁慶庵、それに尾瀬鵜飼の話を、ハンプテイからは、郡上踊りの話をお願いしますね!

分かりましたは、ダンプテイさん

それにても、関と郡上八幡美濃市を取り囲むようにして美濃と言われた国の中心に位置してるのよね

そうですよ、関は、まるで、蜻蛉の羽根みたいに美濃市を取り囲んでいる。

美濃市は、独自の、美濃紙の伝統と誇りがあったので、関との合併を拒んだことでしょう。

ところで、美濃は、地図でみても日本の中心で、人口の中心でもあり、天下分け目の関ヶ原も東西を分ける戦いであり、この地には、斎藤道山、織田信長明智光秀等天下統一の争いが起きたところでもありました。

経済面でも、ここを拠点にして、京都から、東国、北陸への、拠点となる地でもありました。

美濃の中でも、その中心となるのが、関新しい、高速道路でも関市は、東海北陸自動車道と、東海環状自動車交通の要となっていますし、街道も東海道、中仙道、飛騨街道、郡上街道、北陸道等の分かれ目の土地で、ここを基点として人が往来したわけですから、日本中の情報も集まったところと言えましょう。

ただ、東海道線も岐阜を通り、岐阜までの、便は、長良川鉄道一本となり、昔、美濃から岐阜まで、通じていた美濃町線は、所謂、チンチン電車と言って利用していたけど、廃線となり、寂しい限り

廃線の レールが揺れる 大暑かな 

と、ダンプテイが生まれた関には、兄がこんな俳句を作って、美濃町線を偲んでいます。

関市は、長良川、武儀側、坪川が合流するところ

で、木曽川にも近いところで、川交通の要でもある、昔は川を渡っての関所があったことから、関という名前がついている古い街、

歴史的には、皇位継承壬申の乱の争いで、武儀(見毛)君広という人が、大海人皇子に味方し、不破の関での戦いでの功績が認められたことより、この地の豪族に武儀に弥勒寺を寄進させたとも言われ、歴史は古い。

同じく、壬申の乱において、秦氏大海人皇子の群に属して貢献して官位を高めている(日本書記)ことからも、身毛一族との縁も想像される。

長良川が流れる川沿いの池尻近辺の地域は、壬申の乱での功績に報いるため、都からの仏教を基礎とし、国作りへの支援を受けて、奈良白鳳期の特徴を備えた弥勒寺が建造され、武儀(見毛)君広が、この地域を支配していたとされます。

弥勒といえば、京都広隆寺弥勒菩薩、この地に大伽藍の寺を建造するには、多くの建築技術者が北に違いないし、多くの寺院に関与した秦一族も関与したと思われるが、関市は、日本の中で最も波多野氏名が多いことで、知られているのは、秦氏の子孫とも思うが、こんな想像をして昔を懐かしむのも楽しいものである。

これに関連し、日本書記には、美濃地方には奈良時代に多くの渡来人が奈良時代に、移住させられたとされ、秦氏に関係する姓を持つ者が移住したとされ(岐阜県の歴史、松田之利等)、また、正倉院の御野国籍(702)には、秦人、秦人部等が記載されている。

関市に鍛冶集団が多く、美濃地域での武力集団の刀技術の伝承があることも、秦一族が、鋳成りとして、製紙技術をこの地にもたらしたことが想像される。

そして、この武儀氏の拠点近くには、美濃紙の歴史が深く、これも秦氏の紙技術の祖との関係があるものと思われます。

秦氏は、このように古くから、造紙(ぞうし)関係の要職と深くつながっていた。秦氏のような、技術者の基盤の上に製紙の国産化が行われ、山城国が製紙の先進技術を誇り、和紙の技術センターの役割を担った

紙の需要の大半は、仏典であったとされるから、美濃と秦氏との関係は、深かったと思われます。

弥勒寺の当時の面影は、今では、見る影もありませんが、この池尻には、弥勒寺跡の遺跡が、発掘調査で、明らかにされ、南大門、中門、伽藍、塔、講堂アドの遺跡後の配置は、法隆寺を想像させるような配置で、当時のこの地での武儀(身毛)氏の支配が絶大であったことを伺わせます。

しかし、その面影は、古びた遺跡石のみで、そこの咲いている桜は、昔の華やかさを忍ばせるのみである。

さざなみや武儀の御寺はあれにしを むかしながらの花桜かな

これは、この弥勒寺の傍を流れる長良川を歌に読み込みました。

武儀氏が活躍した拠点には、武儀郡、そこを流れる川を武儀川と武儀氏の名残を残しています。

「そういえば、チイ、小瀬川を渡った処にあった弥勒寺跡を見学に連れて行ってもらった時だったかしら、ここに、円空記念館がありましたね」、

円空の微笑み仏が印象的で忘れませんわ、と、娘が懐かしがっている。

弥勒寺院の遺跡を取り過ぎて、竹藪の中を進むと、池があり、その真ん中に円空記念館があり

そこには、様々な円空仏が陳列されているが、その芸術性のある彫刻には、感動しました。

迷いのない力強い直線的な一刀彫りのタッチと簡潔な彫りの中から浮かびあがる慈愛に満ちた表情をもつ円空仏は、見る者を魅させます。

そうね、チイも感動するわ、「円空仏」の魅力って、何と言っても、その笑顔で、素朴で柔らかい笑い顔が特徴ですね
軽く開いた口の間に歯が見えるものがあり、笑い声まで聞こえそうになります。

春たけて まぶた重たき 野の仏

祭るらん 産の御神も 年越へて 今日こそ笑へ 小児子(ちごのね)ノ春 円空

確かに、その微笑み顔をみると、円空の、無欲な姿が反映されているかのように思われ、円空仏の微笑みをみていると、チイの顔も緩みます。

円空のほほえみ仏や涅槃西

そんなに円空像に関心をもっていただければ、ダンプテイも、もっと、円空のことを、紹介しましょう。

円空は,ダンプテイと同じ美濃関の生まれで、を蝦夷を始めとして日本各地を遊行したようで、命を懸けた辺鄙な地での勇気ある行動には、驚かされます。

木彫り仏の「円空仏」を、その行脚の地に多数残して、更に、多くの短歌も残していますが、一刀彫に対しての命を懸けた取り組みとは違い、和歌は、遊びのようなものだったと思われますね

老ぬれは 残れる春の 花なるか 世に荘厳(けだかけ)き 遊ふ文章(たまづさ)

これやこの 腐れる浮き木 取り上げて 子守の神と 我は成すなり

のような和歌から、それが読み解けます。

注:円空仏の詳しい話は、梅原猛さんの歓喜する円空に詳しく書かれています。 

チイも円空の短歌に関があるけど、その他に、どんな和歌があるのかしら?

たとえば、

幾度も 絶えも立つる みえの寺 九十六歳 末の世までも 

円空は、この縁ある寺が荒廃している姿を見て、その復興に尽力していたことが読み取れます。

おしなべて 春の奥美濃 草木マまで 真になるる 山桜かな

わが母の 命に代る 袈裟なれや 法の形は 万代へん 

あさことに 鏡の箱に かげ見えて 是はふた世の 忘れ形見に

楽しまん 心と共に のりの道 月のみやこの 花の遊びか

もろともに 浮世の中は 神なれや 思心に 身渡りつつ

円空は、芭蕉より10歳年上だが死期は、芭蕉より1年遅く、芭蕉と同時期に生きた人で、芭蕉よりも早く、奥羽や蝦夷等放浪の旅を重ねていました。芭蕉円空のことを意識し、東北への旅に出ているようですね!

そういえば、芭蕉が東北に旅に出た一つの動機は、円空に出会って、円空が旅行脚をしながら、一刀彫の円空像を彫り、

日に日に生き、日に日に死ぬ

と、「旅に生き旅に死ぬ」と、いう円空の無常流転の生き方に深く感銘したことにあった」と、言われています」とチイも円空に詳しい。

円空は、芭蕉を意識はしていなかったようで、俳句には関心がありませんでしたが、後の俳人は、円空に関しての俳句を多く詠んでいますね

その中のいくつかを紹介しましょう。

くすぐつたいぞ 円空仏に 子猫の手  加藤楸邨
もの言へば 円空仏も さむかりき   加藤楸邨

汚れて小柄な 円空仏に 風の衆   金子兜太 
啓蟄の 円空仏は 素足かな      楠本憲吉

いちはつや 円空仏は 手に軽く    永井龍男

円空仏を見た人は、その仏の微笑みで心が和らいでいるみたいね、チイの心も慰むわ!

そうですね、ダンプテイも、こんな円空像を見ると、西條八十の、こんな詩を思い出します。

鳥は鳥ゆえ おとなしく

林の奥の 巣に眠り

月は月ゆえ さびしくも

はるばる空を ひとり旅

僕は末っ子 頼まれて

遠い夜道を 薬とり

注:西條八十 元の詩は、末っ子は、兄

円空の放浪の旅人生に憧れて、芭蕉は、奥の細道の旅出をしましたが、惟然も同じように芭蕉の放浪俳人の生活にあこがれ、更に、芭蕉俳句を世に広めんと、風来坊の旅に出ます。

依然は、ダンプテイが生まれ、関の弁慶庵で、最後を娘と暮らしたそうですよ

ところで、チイを連れて、一緒に関の善光寺に訪れたときに、弁慶庵にいったことを覚えていますか」と、娘のチイに聞くと

チイは、「善光寺の巡りは、覚えているけど、弁慶庵には、感心もなかったわ、だって、まだ高校生だったし、俳句には無関心だったから」と、予想通りの答え、

どうやら娘に関心があったのは、弁慶庵の隣の善光寺本堂にあった地下の卍型の戒壇らしい。

なにしろ、ここの卍型の戒壇は、全国的に珍しく、子供にとっては、お化け屋敷の体験と同じですから、もっともなこと!

花に来て 寺の戒壇 めぐりける 寿堂

もう一つ、娘にとって、 感心があったのは、善光寺大日如来像で、人差し指と親指を相合わせて、天に向けて、他の指を下に向けるという独特の印相で、五郎丸のラクビーにおけるポーズそのもの、で、一躍、大日如来像は、善光寺の人気観光名物にもなっている。

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ところで、惟然の話に戻りますが、ダンプテイが、幼い頃、善光寺の麓に、弁慶庵という庵があり、ここで、よく山川洋一君等と、遊びました。

ところが、後で、分かったですが、この山川洋一君の先祖が山川露牛という俳人であることを知り、ビックリしましたね!

露牛は、関町の薬種商「平賀屋」に、生まれ、自らも俳人で、広瀬惟然の業績に感動して自分の名前を惟然の古い名前の素牛に肖って、露牛と、名乗り、惟然の顕彰活動に尽力した人です。

その関係で、弁慶庵にも露牛の俳句が、ここ弁慶庵にも歌碑として残されているわけです。

稲の香や 今朝は伊吹 も軒の山 露牛

この露牛は、薬種商の平賀屋の子、今は、露牛が居を構えた薬種商売を構えた地は、本町通りの文房具店として屋号が残っています。

ところで、惟然の名前は、只、自然のままにというイメージだけど、どんな放浪者なのかしら?

と娘が尋ねるので、ダンプテイは、「俳句のことならなんでも答えましょう」と、お答えして惟然を語る。

広瀬惟然は、

一人静に 旅寝に暮れ

ケセラセラ 揺れて歌継ぐ 旅鴉

梅は咲いたが 桜はまだかい

と、いう「なるようになれ」の旅が惟然の生き方

広瀬惟然は、豊かな酒屋の息子で、芭蕉に惟然は、芭蕉にあこがれ、家を捨て放浪の歌人となった人ですが、芭蕉とは、異なる独特の言葉遣い

旅の借宿での挨拶句では

ゆったりと 渡る在所や 冬の梅

惟然は、芭蕉門下にあって、奇行の多い放浪者であったそうで、こんな逸話が残されています。

家族を捨て芭蕉を真似て乞食同然の放浪生活をしていた頃、娘が父の哀れな姿に驚き、「家に戻って」と、身にすがられたとき、二人は、泣きあうが、惟然は、

両袖に ただ何となく 時雨かな

の句を書き残して立ち去った。

娘は、父親の恋しさに、京都の配本屋を訪ねて きたが、惟然は、

重たさの 雪掃えども 払えども 

と、紙に書き残し、更に自画像を書き添えて配本屋の主に託して、去ってしまったとのこと!

父に娘は、自画像を懐にし、名古屋に帰り、関の弁慶庵にて、尼となって、父の自画像に、かしづいていたそうで、これを惟然は、伝え聞いて、

弁慶庵に戻り、しばらく娘と一緒に暮らし、その後、死亡した」と、されていますね!

注:ふるさと再発見 関市教育委員会 より

なにしろ、父のために、家族を持たないで生き抜いた、父を訪ねて三千里と、惟然の娘のフアザコンぶりには、チイにもみならってほしいですね

と申せ

「日向に島流しになって、父を探して尋ねる平景清の娘の話もそうですね」と、チイも金毘羅歌舞伎で見た景清の舞台が忘れられないらしい。

ところで、「弁慶庵とは、面白い名前の庵ですね」との妻ハンプテイからの質問

ダンプテイも弁慶庵の名前の謂れ等知る由もありませんが、ダンプテイの想像力からすると、惟然は、松尾芭蕉の病に連れ添い、死を看取ると共に、その死後も芭蕉の俳句を念仏歌で、供養するために,全国行脚していますから、義経を慕い、自分の死もいとわず最後の死を迎えるまで、連れ添って死んでいった弁慶の姿を自分が芭蕉を慕う姿に重ねて自分の庵を弁慶庵と名付けたものと思われる。

「その念仏行脚とは、どういうものでしょうか?」とのチイの当然予想される質問

弁慶庵の記念館で、頂だいた資料には、風羅念仏として念仏が再現されてテープを聞くことができますが、その一部を紹介すると、

鉢をチンチンと叩き、自分のみみには、馬の鈴をつけて、リンリンと、念仏踊りをしつつ、芭蕉

ワビ、サビの俳句を歌いおどって、全国を練り歩いたものと思われます。

兎も角も ならではゆきの 枯れ尾花 

なもうだなうだ

空也の痩せも 寒の中 

なもうだなうだ

塚もめぐるか はちたたき 

なもうだなうだ

やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声 

なもうだなうだ

儚く夢を夏の月 

なもうだなうだ

峯に雲おく嵐山 

なもうだなうだ

夏目漱石先生も、広瀬惟然のこんな風来坊が気にいっていたようで、

夏風や 惟然が耳に 馬の

と、句にしています。

元句は、夏風ではなく、春風

と、芭蕉の俳句を紹介すると、

「これに続くのは、

鈴蔭もなく みのはかさか

が良いじゃない」と、チイにしては、頓智が効いた付けで関心する。

なにしろ、美濃は、紙の産地、当然に美濃(蓑)傘は、この地の有名な特産品でしたから、美濃(蓑)は、かさかさの意味が効いてきますね!

鈴を受けた尻取りとなっていますし、夏日和で、美濃の名産である傘も読み込まれています。

「それに、美濃→身の→蓑と話が展開していく趣向が面白いですね」と、この時ばかりはチイに感心致しました。

娘を馬鹿に褒めるので、ハンプテイは、少し、焼子持ちを焼いてるのか、「楽しいはずの旅もダンプテイやチイの俳句談義に付きあわされて、本当に心落ち着けなくて、ハンプテイの心もかさかさと申され

風吹けば 風吹くままに かみ任せ

髪もかさかさ わが身かさかさ

と、美濃紙の蚊さでは、風が吹くままに揺れ動く

チイの負けない、ハンプテイの趣向の効いた和歌、

ところで、弁慶庵の歌碑に

梅の花 あかいはあかい あかい花 惟然

がありますね」と、大好きな惟然の俳句を紹介すると、我が娘のチイ

「韻を踏んだ面白味があるけど、この俳句は、情感が乏しいから、チイは、のどかさのあるノラクラ俳句の方が好きだわ」、なんて、イッパシの俳句通のような生意気なことを言う。

ラクロとは、昭和の漫画家 田河水泡の犬の主人公では、ございませんか、この水泡が俳句でもつくられたのかと、思いきやチイが申すには

「これは、これは、惟然のことは、何でもご存知とおっしゃるダンプテイ

のらくらと ただのらくらと やれよ春 惟然

との惟然の俳句をご存知ないとは、驚きものの木20世紀!」

と、ここは、チイどの一本有りで、ダンプテイも兜を脱ぎました。

しかし、この俳句

長閑な春の曙で、

なんだか、田河水泡のノラクロのヒトリボッチの旅みたいな雰囲気!

こんなのどかな季節には、ピッタリなのが、惟然の俳句

鶯に また来て寝ばや 寝たい程 

韻を踏んでる俳句と,いえば、こんな俳句もありますね!

きりぎりす さあとらまえた はあとんだ  惟然

惟然は、煙草、傾城、菓子もやらぬ俳諧師は、少なくなったと、自身をあげつらっているが芭蕉門下で、狂韻風月を楽しむ弟子も稀であった中、

依然以前に依然なし 依然以後に依然なし

と,俳句界では、言われていますね!

こんな惟然の想いつくまま、気の済むままの放浪の旅にダンプテイは、憧れています。

ところで、美濃の田園風景といぅたら、柿の木ですが、「惟然」も柿が大好きなようで、

別かるるや 柿食いながら 坂の上

俳諧師に似つかわしく、飄々として柿を歩きながら食べる様を句にしています。

惟然は無分別の性格でしたから野柿を盗み食いしていたに違いありませんともうすれば、

惟然は、無分別だから、家族を捨てての旅にでてしまったのよ、ダンプテイも似たようなものですけど」、と、ハンプがダンプテイの無品別さ惟然と同様と申される。

しかし、ダンプテイの場合は、真面目に、サラリーマンを60歳までやり遂げて、そのあとは、全国を三度傘で、飛び回わったけど、これも、御国のためのお勤めでございました。

そんな、言い方で、ダンプテイを惟然と、無分別だなんて、言われると、狼狽いたしますわ!

と、言えば、

すかさず、娘のチイ

狼狽と、いったら、ダンプテイの蓑傘も黴が一杯の老黴で、不衛生ですわ!

ろうばいや みのの因果か 成れの果

チイの俳句のロウバイは、キラキラと、透き通る蠟梅としていただきたいものである。

蠟梅と老黴では偉い違い様とダンプテイが申せば、

「いえいえ、惟然は、芭蕉の俳句旅にも同伴させてもらえなかった悲しい終末、老いて狼狽する旅人広瀬惟然の心境を句にした訳ですから、ここは、狼狽で、良いんですよ」とのこと

惟然の生涯は、俳句だけに生きた放浪旅人、最後の数年だけは、娘と、弁慶庵で過ごせたのが幸せを感じたと、思われますね!

と、中々、チイも惟然にもお詳しい。

ところで、惟然も俳句を作りながらの旅の最後は、弁慶庵の近くの善光寺の鐘の音を聞き、尾瀬長良川の鵜飼をみて、自分の悲しい運命を振り返ったことで、ありましょう。

鐘一つ はや日短かの 善光寺

この俳句の連れ句は、

長良の夜は 鵜飼で締め

さて、面白くない、連句となりましたが、連句の開祖は、宗祇とされますが、宗祇も美濃と深い関りがあるそうである。

郡上のことは、郡上出身のハンプテイ様にご教示願うこととした。

それではダンプテイのご要望に従って、とハンプテイ

宗祇は、郡上に長く居を定め、和歌を勉強していたそうで、その師だったのが、郡上の城主であった東常縁だそうですが、常縁の子孫の東胤行は鎌倉幕府御家人で和歌に優れ,藤原定家の子・為家から歌道を学ぶと共にその娘を妻とし,1221年に郡上の地に赴任した。

常縁は、央歌壇にも広くその名を知られましたが、郡上の東家は、祖先を餅代々和歌を伝承してきた「古今伝授」の祖といわれています。

常縁の和歌の力により白を取り戻したという逸話が残される。

美濃の斎藤により城を攻めも落とされ、領地を横領されたが、常縁は、妙椿との和歌のやり取りをして、そのおかげで領地を取り戻せたという逸話である。

もう少し、この逸話を開設しますと

あるが内に かかる世をしも ゐたりけり

人の昔のなほも恋しき 常縁

と、和歌を詠んだと伝え聞いた妙椿

妙椿も自分も歌道を親しむ者、歌を詠んでくれたら領地をもとに戻してもよいとしたためたら常縁

故郷の荒るるをみても 先ぞ思う

しるべ あらずば いかが分けこむ 常縁

妙椿の返歌は

此の頃のしるべなくとも故郷の

道ある人ぞ 安く帰らん 妙椿

これで領地が戻されたという逸話である。

もう一つの逸話は、都では和歌の道が途絶えていたので、宗祇が和歌の伝授を受けに 常縁に教えを請いに郡上に二度にわたって訪問し、その話を宗祇がまとめたのが古今和歌集両度聞書である。

宗祇は、この奥義を三条西実隆に伝え、更に細川幽斎に伝えられ、歌学の正道が伝えられたとされます。

このように郡上の常縁は、和歌の伝統を伝えた重要な役割をはたすとともに、宗祇への文学への道、弾いては連歌の文化を導いた人として重要な役割を果たしたと言えます。

宗祇と別れる時、常縁は宮ケ瀬川の畔まで送り

紅葉の流るる龍田白雲の

花のみよしの 思ひわするな 常縁

宗祇はこの歌をうけ、

三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな 宗祇

惜しむ別れを清泉に託した2首の和歌がこの地に残されています。

これが、白雲水とも呼ばれる名所であるが、今は、宗祇水と呼ばれる郡上八幡の名所となっている。

なお、余談となりますが、東常縁東六郎兵衛尉行澄は、明智光秀本能寺の変を起こす直前の天正10年5月28日、愛宕山で百韻の連歌を催した(俗に「愛宕百韻」と呼ばれる)際に、一句献じている。

 

これは、これは、流石に郡上の歴史にはお詳しい、、ところで、この郡上を流れる長良川には、思いでが一杯あります。

ダンプテイが結婚して数年してから、ハンプテイハンオウテイとダンプテイの両親を招待して鵜飼船を一艘貸し切って鵜飼見物をしたことがありましたね!

さざ波や 長良の山の 峯続き

 見せばや親に 鵜飼盛りを

元歌 さざ波や 長良の山の峯続き

 見せ場や人に 花の盛りを 千載集 藤原範綱

親には、大学まで、出してもらって、無時仕事に励むことができ、結婚して自立できたのも親の御蔭だと、せめてもの感謝の気持ちだったけど、今から思えば、「両親が元気なうちに、もっと色々なことをしてあげれば良かった」と思います。

親思ふ 心にまさる親心 けふのおとづれ 何ときくらん 吉田松陰

親の子供を想う気持ちは、子供を育ててみないと分かりませんから、親孝行しようと思ったときには、もう親が居ないことになる。

長良川 流れて過ぎし 故郷は 親なき里と なりに けるかも

父は、この鵜飼見物の後、暫くして癌が再発して亡くなって しまったし、その後、母も亡き人に、親孝行しようと思ったときには親は、居ない。

親思う心に勝る母心今日のおとづれ何と聞くらん

と、吉田松陰の気持ちが分かるような気がします。

こんな、ダンプテイの親心の話をしても、娘は、他人事で、聞き流し、車窓から望める金華山の頂きをみて、

もののふの 夢はかなたや 鵜川かな 信長、

この金華山を見ればおもいだすのが、織田信長

織田信長もこの岐阜城がある山の麓を流れる長良川の鵜飼を保護して、鵜匠のように、天下を操る夢をみて、この地を岐阜と命名し、天下布武を夢見たのでしょう。

しかし、明智光秀の反乱で、天下取りの波にのって進んでいた信長もあっけなく、一夜のうちに夢も希望も絶たれてしまって、哀れさを呼び戻しますね

波みに乗り 波に乗り 鵜の寂しさは 山口誓子

鮎が鵜に一気飲みこまれて、食べられてしまう運命は、何か、ももの悲しい!

ところで、信長以来の、岐阜からの政治家といえば、大野晩朴ですね

鵜かぐりや 音美しき 金華山 大野万木

政界のボスとなって新幹線も地元の羽島に引き寄せてしまうおいうt大野晩朴の鵜匠の綱裁き振りが読み込まれ、信長の俳句とは、随分と印象が違います。

「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな  芭蕉

と、鵜飼の悲しさを俳句に表現していますね

と、ハンプテイも芭蕉の俳句には、お詳しい。

「賑やかだった鵜飼も篝火を消すと、闇夜となり、魚を追いまわしていた鵜も急におとなしくなる」わね、と、夜になると元気に動き回る男ども見習ってほしい」とばかりのことをおっしゃるが、こちら様は、そんな元気はありません。

鵜匠とて 物思ひもなく 老い枯れし 松本たかし

そういえば、この小瀬鵜飼が行われる小瀬川に近い弁慶庵で、過ごしていた、惟然も 

水鳥や 向こうの岸へ スウ-イスウ-イ 惟然

と、俳句にしているように、ダンプテイも三途の川の向こう側へ、スーイスーイという惟然の心境である。

ところで、この惟然の独特な言葉俳句に、影響されたのか岐阜出身の大物政治家の大野晩朴さん、

美濃の児の 蛙泳ぎや スウーイ スウーイ

と、こちらの晩朴さんは、世渡り上手のスウーイ スウーイ

なかなかの俳句を作られたと感心して「いると、

ハンプテイ、晩朴さんも、美濃の児も政治の世界では、スウイースイとは、いかなかったようで、奇行もあったようですよ

宰相にはなれずに終わり、息子の大野明に、政治を世襲しましたね

晩朴と、争った野田卯一の岐阜選挙区は、野田卯一が、野田聖子を幼女に迎えて、政治の世継ぎ、まさに鵜匠のような世襲とは、悲しい限り。

ところで、久保田万太郎は、大野晩朴を平凡な政治家と思っていたら、

長良川 棲む通い鮎 わが胸

この俳句を万太郎はみて、晩朴さんも中々の俳句詠みだと、見直したと感想を述べていましたね,」!

すると、ハンプテイは、大野晩朴の霞が関にある句碑は、

鐘がなる 春のあけぼの 増上寺

だけど、さほどの出来とは、思えませんけど」

と、中々と、評価が手厳しい。

ダンプテイもこの俳句を評価いたしませんが、なんといっても晩朴が株を上げたのは、美濃の田舎、羽島に新幹線を止めたことですね!

炎天より 僧ひとり乗り 岐阜羽島 森澄雄

と、いう名句がありました。

ところで、久保田万太郎

「春の旅 日本晴れや 神詣で 松岡洋右

の俳句を見て,この政治家の値打ちが半減した」と酷評していますから、有名人は、下手な句は、残せませんね、ダンプテイさん!

とても有名人でない、私しめを有名人に祭り上げるとは、何の魂胆ありゃ!

いずれにしろ、芭蕉のような有名人の俳句は、俳句が歌枕となり、観光としての、PR材料にもなりますから、良い句を歌碑にして残しておくことが肝心ですね!

例えば、良い詩で故郷を有名にした歌人といえば、石川啄木室生犀星等ですね!

故郷の訛 懐かし友が居て

故郷は遠きにありて思ふもの

そして悲しく歌うもの

よしや 裏ぶれて 異土の乞食となろうとも

帰るところにあるまじや      室生犀星

ふるさとの訛なつかし停車場の人混みの中に

そを 聴きにいく   石川啄木 一握の砂

美濃を有名にした俳句も色々ありますね、例えば

げんげ田の 広大これが 美濃の国 山口誓子

鶯や 美濃の牧谷 かみどころ 大野万木

牧谷とは、美濃市ですが、紙の産地であることをPRして、地元産業にも貢献なさっている。

ところで、この辺りは、猿が出るようなところですが、そんなところの出目である晩朴さん、池田内閣解散で、猿と渾名されていた。

万歳三唱の挨拶に

猿が国会を去るにあたり

猿は木から落ちても猿だ。

代議士は、落ちればただの人、去る人よ、また当選して再開しましょう」

と、挨拶された。

「さすが晩朴さん、俳人でもあり、ユーモアを解した代議士でした」と、地元政治家を賛美すると、妻のハンプテイは、野田卯一を家族が支援していたようで、晩朴さんのことを知らないらしい。

伴睦なんて人、殆ど知らないし、ただ、顔を見ると随分厳めしい猿みたいな顔をされているけど、こんな面白い句を 残しているのね、人は、見かけによらぬとは、いいますわね、

いえいえ、そんな「厳めしい」だなんて、

政界を引退された頃の御顔は、優しい眼差し、ダンプテイの親父もこんな顔をしていて懐かしい。