ハンプティのブログ

ハンプティ・ダンプティのように、いつもずっこけぶりを発揮しています。

ダンプティ親父の美濃思い出日記-2

ダンプテイは、関の生まれ、美濃の紙の、郡上の踊りの話題にが出でたら関の刃物の話は、欠かせませんね

問われて、名乗るもおこがましいが生まれは、美濃の在、刀鍛冶の関の孫六、今では貝印で、ございますからどんな包丁も鋏も取り揃えております。

なんて、口上をダンプティが披露するや、

ハンプテイ、名刀自慢は、どうでもいいけど、そのダンプテイの頭の切れ味も関の孫六並みであってほしきもの、そんなぼんくら頭では、大根ですら切れませんわ!

ハンプテイの讒言には、ダンプテも負けておれません、頭の切れ味は、孫六並みでなくても、この世の中、心活きが大事、どんと、前に出ていく勇気が肝心、

頭は悪いけど心が錦、男なら、人のやれないことをやれ、どんとやれ

と、水前寺清子の歌では、ございませんが、片肌脱いで、「どんとやれ」、これがダンプティのやり方、これからも「堂々ドッコノドン」と,人のやらないことをドントやって、家族を守りますから、ご期待を!

こんなb駄洒赤話ばかりでは、笑いものになりそうですから、ちょっくら、真面目な刃物のお話を

鉄砲伝来の和製鉄砲第一号は、1541年に種子島に漂着した南蛮船を島人の種子島時尭が歓待して、鉄砲二丁を譲り受け、国産化が進められた。

関の刀鍛師冶の八板金兵衛清定が、この地にきていて、種子島時尭から鉄砲の製造の銘を受けて、鉄砲技術は日本国中に広まったとされる。

金兵衛は、技術を習得するために、ポルトガル人に、娘の若狭を嫁がせたとされる。

ポルトガルから、再び日本に、戻って来た若狭の和歌

月も日も 日本の方ぞ なつかしや わが双親のあると思えば— 若狭[

若狭は、大病で死んだことにして、ポルトガルには帰らなかったと言い伝えがあり、西表島には若狭の墓がある。

海音寺潮五郎は、ここを訪れて

あはれここ 若狭の墓か 白砂の もろく崩るゝ海のべの丘— 海音寺潮五郎

関の刀鍛冶の技術が、鉄砲の伝来にも活用されたらしいけど、関の刃物技術の歴史は、胴なのかしら」とダンプテには、答えかねる難しい質問

それど、知ったフリシテダンプテイ

関近辺は、武儀軍団が、この近の辺を支配していた関係、そして、この地は、東国と西国分け目の地での戦いの舞台の中心となって、全国への刃物の供給地として関の鍛冶集団が形成されていったとされる。

特に、関の刀鍛冶が有名になったのは、戦国時代に元重が、鎌倉時代にこの関市に移り住み刀剣技術をこの地に広め、武士に愛された東建の地、

関の孫六型な有名なのは、関の三本杉と言われる三本な羽紋が刻まれている刀ですね!

と自慢げに開設が始まると、

ハンプテイ、そういえば、この三本杉で有名な刀鍛冶師元重の娘婿が、1288年に建立した寺が、弁慶庵の近くにある千手院であって、「元重」碑が建立されていたけど、そこには、

さぞきぬた 孫六屋敷 志津屋敷 其角

の句碑が残されていましたわ

トントンと、砧を打つような音が聞こえて来るが、さぞ、孫六屋敷だろうか、志津屋敷からだろうか、という意味だと思われますね

「随分と、関野ことにもお詳しいハンプテイ」とダンプティもびっくり

実は、この句碑は、鳥落社(関の俳句結社)に属した俳人でもあった奥村三守が建てたものだそうで、

芭蕉門下の其角が惟然の弁慶庵を訪ねたときに、詠んだものとされ、その句碑の裏側には、

汲にけり いく秋鍛冶の 七流   奥村三守 

と、刻まれていましてね

「七流れって、質屋流れ見たいだけど」と、ハンプティ、頓珍漢な顔

それでは、とダンプテイの解説

実は、この七流れは、関鍛冶の七つの流派を言い、関を中心に近辺に、刀鍛冶師が刀技術を日本各地に広げたと、される訳ですよ!

例えば、名古屋に関鍛冶町という町がありますが、これは、徳川家康名古屋城の築城と、共に町割りが行われ、関の鍛冶師が多く移住した(43家)そうである。

その街の名残もいまでは、丸の内となって

その名残が消えているのは悲しいけど!

そういえば、ダンプテイが生まれた時の町名は、郷土町、これが本町、他にも、鍛治屋町や孫六町、呉服町等、昔の名残が残る町名が本町とか新町~丁目に変わってしまい、街の文化を消していくのは悲しいわね」と、ハンプテイも同情の様子

そんなことだから、地元の商店街も都会から進出して大型スーパーとの価格競争に負けて、本町通りなど、シャッター通りになっているじゃありませんか」、「行政の都合主義には、腹が立ちますね」と、

ダンプティが言えば

ハンプテイ、「そんなに腹が立つなら、関に戻って、市会議員にでもなって、関の銘と孫六の切れ味をご披露して、従来の風習を切り崩してばっさばっさと、行政改革を擦ればいいのに、今からでも遅くありませんわ!

何のために剣道をなさっていたのかわかりませんわ」と、叱咤激励のつもりか思いもかけないお言葉

実は、この私くしこと、ダンプテイ、小学6年生から、関の警察署での剣道修練所に通って剣道の腕を磨き、関高校では、剣道部員で活躍した経験がございまして、その刀裁きも中々なものでございましたが、今は、錆び刀、お役に立てるようなものではございません。

すると、ハンプテイ、

「ところで、三島由紀夫東京市ヶ谷の自衛隊総監室に突入して割腹自殺を遂げた時に、使われたのが「関の孫六」で、ございます。

そんな錆び刀では、ダンプテイのお腹の分厚い肉には,刺し通せませんわ、しっかりと、磨いて、おいて頂かないと」とは 冗談がきつ過ぎます。

それに輪をかけたように、娘のチイが申すには、江戸で鍛えた刀裁きと、言っても、剣道二段程の腕前では、あの髭面の熊坂長範程度のものでしょう。

「何ですか、その熊坂長範並みの腕とは」と、ダンプティ聞けば、

謡曲の鳥帽子折に、登場する髭面の強盗「熊坂長範」は、ダンプテイそっくり、美濃赤坂義経を襲った話し

5尺3寸の大太刀の熊坂が真っ向よりの幹竹割を義経目がけて降りぬくも、義経小太刀で、独りにみえつる熊坂も二つになってぞ失せにける

の台詞をダンプティは、ご存知ないのかしら

謡曲が趣味と申せられるダンプテイにしては、お粗末なことです」と、この「親父の金玉を二つに叩き割るような憎らしい口を叩くチイである。

そういえば、我がダンプテイが愛する漱石先生も鳥帽子折の謡曲を習ったようで、謡曲の話が小説の中で、しばしば登場するが、今となっては、漱石先生が謡曲で、うなる声は、如何なものであったか、知る由もありません。

ホトトギス 厠半ばに 出かねかね 漱石

と、オトイレの中でさえ、漱石は、糞が出かねかねて、うなってばかり

実はこの俳句の裏話があるます。

漱石先生も、謡曲囲碁もなさったようだけど、程々にして、吾輩は猫であるなどの小説作りに専念したからこそ、世に風靡される作家として旅立つことが出来たわけですからダンプテイも趣味を絞って頂かねば」と、ハンプテイからのとんだとばっちり

さらに、「旅立つときは、足固めが必要ですから、しっかりと、文芸書をしっかりと読みこなすことが文芸界への旅立ちの足固めですは」と、注文が手厳しい。

ところで、ダンプティが生まれし、関の街は、関の孫六刀の産で、幼い頃よくみたのは、鍛冶屋で馬の足には、蹄鉄が釘で打ち付けられていた。

馬ですら、旅にでるときには、赤い火中で、熱した鉄を、足に釘で打ち付けるのである

馬にとっては、なんと、残酷と思われるが、これをやらないと足を痛めるというわけで、旅に出るにも足固めが大切と申します、しっかりと足固めをしてダンプテイも旅にまいりましょう。

大袈裟に旅とおっしゃいますが、ダンプティを独りに旅立たせては危険だから、せめて、私達の足手まといにならぬよう静かに、静かに、ハンプテイについて来て下さいね!

と、親父の一人旅は、無理だとハンプテイに言われては、悲しい限り

ダンプティは、静御前の旅にしてねと、おっしゃりますが、ハンプは、自分を神に祭りたて、山のお神の言いつけだからと、ダンプテイを黙らせる戦法でしょうか、静かに付いて行くだけのダンプティの旅では、「退屈過ぎませんか」と、ダンプテイが申せば

いきなり、腰折れ親父が旗本退屈男で登場なさるとは、これこそ突飛な猿芝居!

旗本退屈男は、:時間潰しに、彼方此方と、偶には、悪人がいれば、「ばっさばっさ」と、得意の剣捌きを見せ、眉間に月型の傷がある格好いい男!

市川歌右衛門が演ずる早乙女主水之介の必殺の剣技「諸刃流青眼崩し」、この眉間の三日月が見えぬか!と、勇ましいでは、ございませんか

静にハンプテの後に従っていてもいざという時には、旗本退屈男並に磨いた剣道の腕を発揮していただかねば

それなのにダンプテイ親父

旗本退屈男真似をしても、その足を一つ前に差し出しただけでも、ヘップリ腰の刀裁きであると、馬脚が現れますわ!

と,手厳しい。

柳ケ瀬で悪事を働いた「護摩の蠅」を見つけて、得意の背負い投げで、叩きつけ、警察に突き出す男が今流の退屈男、こんな勇ましい義兄は、格好良かったけど、ダンプテイは、直ぐに逃げ出し、転がって眉間に傷をおってしまう「へなちょこ」の退屈親父よ、武器はさらば、老兵は去るべし、ですは!

[ばっさばっさ]と、切り出すのは、愚作の俳句ばっかりの、五月の鯉の吹き流しといいましょうか

風吹けば 風吹くままの 鯉のぼり

これに続く連れは、

退屈男 旅のかき捨

痴呆症の親父、旅に疲れて秋風が吹くという趣向の俳句は、やっぱり

旅疲れ けふは幾日 秋の風. 

旅に飽き けふは幾日やら 秋の旅 芭蕉

旅にでても、「ああ眼鏡 眼鏡 ああ財布 財布」と、探がしばかりしているダンプティ親父だから!

ごはんまだ さっき食べたよ 御爺さん

爺さんや 探すは指輪か 薬指

これは、これは、次々と、ダンプテイを「これどもか、これどもか」と、ハンプテイの懺悔の言葉の羅列

言うことに事欠いて、敬老の日も、50年間も家族のために働いてきたダンプティ親父への勤労感謝の日もありゃしない。

痴呆症が近いからと言ってダンプテイのを馬鹿にする俳句までつくるとは、いけません」と、申せば、ハンプティ

「大丈夫ですよ、長嶋茂雄ほどでは、ないですから、なんたって、長嶋さん野球見物に息子の茂をつれていって、つい、夢中になって、野球場に息子を忘れてしまって、自宅に帰って奥さんに言われてきがついたそうだから」と、ダンプテイの呆け具合を長嶋さんをもち出して、慰めの積もりかどうか知らないけど、そのあとの言葉もさらに、いただけない。

「あああの男 あああの女と 懐かしき友の名前も忘れて 今日は風呂に入ったか、飯は食べたか 」そんな痴呆の親父には、なってほしくないですわ」

これでは、ダンプテイ、希望も夢もありませんから、せめて

おもしろく 膨らむ夢や 鯉のぼり 

元句おもしろく膨らむ風や鯉のぼり 子規

で、お願いしますよ!

とは、悲しい限り。

すると、娘のチイもハンプティの親父懺悔に輪をかけて

「こんな痴呆症となりつつある、介護認定3認定の親父に膨らむ夢なんか,どれほどありますかしら?」とダンプテイにとどめをさす。

確かに、ダンプテイ、孫の名前を忘れる程ですから、痴呆症と、言われても仕方がありませんが、我が夢といえば、悪夢ばかで、我身に吹く風は、秋の風を過ぎて木枯らしばかりで、もう あかんですがな!

あかあかと 日はつれなくも 秋の風 芭蕉

それにしても風という漢字は、風景 北風 等風だけでなく、風雅 風流 風情 風袋等 人の生き方を表す漢字の多いこと! 

この旅では、この風来坊に如何なる風が吹くのか心配でございますが

風吹けば 来るや隣の 鯉のぼり 

と、このダンプテイの旅のお連れ様が春の風を吹かせてくれることを期待しております。

ところで、ここ数日は秋の風、随分と秋らしくなってまいりましたが、話は変わって俳句界に春風を吹き込ませたのは、なんといっても芭蕉ですね!

この辺り 目にみるものは 皆涼し 芭蕉

長良川のあたりでの俳句と、言われています。

そして、なによりも

奥の細道の終焉は、

蛤のふたみに別れ目に涙

同伴した、其角と二見が浦に行くと分かれたときに、洒落た俳句ですね!

 芭蕉と其角との二身の別れも当然に、挨拶となっていますと、古典文学談義にも、チイは、関心はなさそうである。

それでは、芭蕉から近代文学漱石に話題を変えて、とダンプティ

漱石小説のでてくるといえば、牛丼ですが、関といえば、鰻ですね、今でも、南濃地区では、木曽川長良川揖斐川とデルタ地域が多く、泥鰌、鯰、鰻を食べさせてくれる店が多い訳ですよ」と、食べ物の話しで、嫌になります。

ハンプテイの故郷の郡上八幡美並村では、鰻は神様とされ、とっては駄目だし、食べても駄目とされているのよ、地元に来たら地元の風習に倣って頂きたいわと、ハンプテイが申される。

そういえば、美並村がハンプテイの故郷、この辺りを散歩していると、川に鰻が、一杯に泳いでいる。

どうしてこんなに鰻が、と聞けば、この近辺では、鰻は神様だから絶対に食べてはいけないし、とってもいけないという風習だとか

しかし、ダンプテイの故郷の関では、そんな話はなく、鰻丼の名店が多く、名古屋辺りからも鰻を食べに観光客が来るという。

鰻美味し彼の川 小鮒釣りし彼の川

夢は今も廻りて 忘れがたき故郷

と、手掴みで鰻を追い込んだりして捕まえて、河原で串刺しにして、食べてたけど!

帰郷すると、どこに行くよりも、飛び込むのが、辻屋の鰻、今まで、この店より,美味い鰻にお目にかかったことがないといえば大袈裟ですが

丼のご飯の中には、二層に鰻が入っているからたまらない。

木曽川の 泥の匂いや 鯰鍋

早速、関にまで車を走らせることとして、辻屋にむかったが、案の定、辻屋の前には、20程の客が列を作っている。ところで、ここの女将さんの髪は、黒柳哲子もしくは、千と千尋の神隠しに出てくる湯婆々みたいというか、203高地髪で見事な結いは、圧巻

この女将さん、なにやら貞奴に憧れて、この髪型にされているとか、ですが、相撲見物が何よりの趣味ということですがどうなんでしょう。

と、ダンプテイが聞けないようなことを、娘は、御換算に聞いているから冷や冷やもの

女将さんがもうされるには、これも、あれも、皆お店の宣伝とさせて頂いていますは、と、

成程、お上さんの頭を拝見すれば

ハテ、ハテ、ハテハは、南京玉すだれ、一寸開けば、鰻の頭に、これ似たり、これ似たり。

こんな女将さんだから、店も繁盛しての鯉登りならぬ、鰻登りの売り上げに、違い無い。

娘のチイ、突然の、南京玉すだれが、登場してマタマタ、鰻のビックル丼が

丼と御前に登場してビックリのご様子

これだから、親父と席に来るのは有難いと、

こう居るも 大切な日ぞ 花盛り 惟然

と、関の俳人惟然の名句を披露されるとは、空いた口も開かない。

「なんと、古典、古典と惟然美濃にも詳しいこと、

本の虫 こてんこてんに ふみ潰し

では、ございませんか、

このコテンとは古典でもありますが、このダンプテイ親父をコテンコテンに、踏み潰すことなく、父親を踏み越えていって欲しいですね!

昔は、こんな悩みは、思いもよりませんが、我が身も衰えてきますと、ついつい娘の将来が心配でありましてね!

美濃の奥山 踏み超えて 昔はものを 思はざりけり 

マー「美濃の奥山を踏み越えて」だなんて、100m程のちっぽけな安桜山など直ぐに踏み超えられますけど、ダンプテイ親父の読書好きの文は、とてもチイは、越えられませんわ!

そのうち、ダンプテイは、芥川賞でとられるものと、期待しておりますわ、

と、辻屋の鰻を奢ってもらったせいか、おせいじタラタ、たれタラタラである。

いえいえ、そんな出世魚の鰻のぼりのような滅相もございませんよ!

トドのつまりは、この姿、ウダツもあがらない身上でございますから!

チイ:いえいえ、美濃といえば、うだつの街

鮎の香や 美濃はうだつの あがる街

ダンプ:またまた、なんという誉め言葉の上手な娘でありましょう。

でも、関も、岐阜市も昔の面影は、薄くなり、最もにぎわっていた本町通りも荒れ果てて、シャッター通りと、なっております。

さざ波や 美濃の河原は 荒れにしお むかしながらの 川魚かな

と、昔と変わらぬ出世魚等滅相も碁合いませんと、ダンプテイが申せば、

でも、出世魚ではない鮎は、昔と同じ懐かしい味が残っていますから、ダンプテには、そんな出世は、もう願っておりませんわ!

と、慰めともいえぬ、諦めともいえることをチイは、おっしゃる。

ところで、ダンプテイが幼い頃は、関市の長谷観音は、美濃の法隆寺といわれ、初午には、馬を着飾った馬行列があり、8月9日には、一日拝むだけで、九万九千日の効能があるとか、

「折角ですから、もう少し関にとどまって、九万九千日のお参りを致しましょう」と申せば、

娘、「そんな私しめでは、ございませんは、旦那があるみですから、こんな閑な親父にはお付き合い出来かねます」と、お断りされrてしまう。

「それでは、お土産に、何を持たせましょうか」と、いえば、この娘、「親に鰻をご馳走になったから、

もうこれで、十分でございますは、色々過去の土産話も頂きましたから」と、涙がチョチョ切れるようなお言葉

それでは、と、その言葉に甘えて、更にお土産話をと、ダンプテが得意になって、語り始めるから始末に置けない。

ダンプテイは、双子で生まれたそうでしてね、

母親が身重のときに防空壕に逃げる時に、転がり落ちて、もう一人が出産後亡くなったそうです。

御産婆さんが、ダンプティを取り上げて、「可愛 いいi男の子ですよ、でも、もう少し頑張って下さい もう一人産まれますから」!

次に産まれた子供を取りあげると、「大丈夫、もう直ぐにあの世にいかれますから」と、言われたそうです。

 

亡くなるのに、大丈夫なんて、可哀そう!

昔は、双子の誕生を忌み嫌っていたのか、それと も、戦時下にあって、食料なんの時代、双子が産 まれたら大変だったと気遣ったのかしらないけど、双子座や 星一つだけ 飛んで行く

ですから、母から「あんたは、二人分の 人生を頑張りなさい」と、何時も言われていたのね!

と、ハンプティも同情ぎみ

ダンプティの:幼い頃は、母のこの言葉、気にも留めていなかったけど、今になって思い出しますね、母の愛を

題 母の言葉

酒宴と歓楽の喜びを身に浴びて

放蕩三昧の浮かれ人生

夜風は嘆き波は,怒涛の如く荒れ狂う

ああ破廉恥人生とは、このことや

母は旅終わるまで我を憂い嘆きつぶやいた

汝 二人分の人生を歩まんと

この言葉、身にしみて思うこの頃

さもありながら ありながら

「亡くなった子は、可哀そう、もう一人の子王の分の人生もお前が背負っているから二人分の人生を歩んで欲しい」と、母親が口癖のようにダンプテイにいっていた気持ちは 分かるような気がします。

そんな母親気持ちを懐かしみ、舞い踊りを一つご披露いたします。

 題 二人分の人生を

殿を始めて 見るおりは

千代も経ぬべし 棒かしら

殿の産まれし 美濃の野に

双子のかけらが 舞い踊る

双子のかけらが 舞い踊る

嫌だわ、ダンプティの棒頭をふりまわしての珍踊りなんかして、かけらでは なくて、亡くなった人の分も含めてでしょ!

とハンプテイ

ダンプティが産まれた頃、日本も負け戦が濃厚になり、 戦費も無くなり、米国本土へ襲撃するような飛行 機もない中に、登戸軍事研究所は、紙風船を使って太平洋横断による適地爆撃を企てたそうでて、

表具師をしていた父、つまり、チイの御爺さんは、 腕を見込まれて、その風船作りの指導をしていた そうで、これもチイへの形見の記録に留めます。 というと、チイ、

その登戸軍事研究所って、生田の明治大学 のキャンパスにその遺跡が残されているのよ!

と、チイは、卒業生のような口ぶり

調べてみると、確か、登戸軍事研究所で、やっていた終戦間際に 計画していた兵器リストには、この風船爆弾の他 に、怪力光線とか生殖機能破壊薬品というのもあったらしい!

親父も国家機関から軍事兵器の手伝いを させられていたかと思うと、それなりの表具師の 腕も全国区ということだったのかな!

そう言えば、ダンプテイの親父、どこか、自信に満ち溢れていましたね!

自ら嵐勘十郎に似ているとハイカラかんかん帽を被り写真館で家族写真を撮るのが好きで した。

セピアなる父の写真のかんかん帽 

母親は原節子、父親は嵐勘十郎とダンプティは,おっしゃるけど、それにしては、その子供の貧弱なこと、精々ナギラケンイチ かバーブ佐竹

ところで、原節子って、ぼつぼつと、話をされるけど、何となく品があり印象的でしたね!

原節子は、歌で歌えば

恋い焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす

こんな歌がぴったりでした。

そうそう、ダンプテイの鎌倉での吟行で、こんな句を作ったことがありました。

腹節子 亡き人ここに 半夏生

なんて、俳句にしたけど、腹節子なんて、間違えて書いたものだから、俳句仲間から、[原節子さん鎌倉に住まわれていたけど、腹ではないでしょ,腹節子では、ダンプテイみたいな三段腹の節 ]

ですね、なんて、笑い草である。

原節子さんに失礼なことを申し上げて、お詫びに、原節子さんに相応しい一句

もの言わぬ 和服の女 半夏生

坂道の 果ては海なり 白日傘

確かに、この日傘をさしているのは、草間弥生では、絶対駄目で、原節子でないと似合わない。

ところで、話は、戻りますが、日本も風船で米国 を爆撃するなんて、神風を信じて、とんでもない 馬鹿なことを考えていたものです。

敵国に 祈る神風 紙風船

それとも

神風よ 異国に届け 紙風船

アメリカは、一発で何十万人と殺戮できる原子爆 弾を開発していたのに、なんと、風船とは、空気が読めていない。

日本に紙風船あり 敵に原爆あり

ところで、ダンプテイの話しの風船万歳は、いいけど、ダンプティの双子誕生も一人が 亡くなって、バンザーイだったそうだけど、このお産の戯画は、誕生祝いでなくて、漫才男バンザー イと、いう感じで、もう髭をはやしてられる。

それにしても、このお産の絵画は、何でしょう 」

と、娘のご質問

旧約聖書のヨブの言葉に「裸で私は母の 胎をでた、裸で私は、かしこに帰ろう」というの が、この絵のメッセージですよ、かしこは、母のところにですが。

田舎から飛び出して、我儘に生きて来たけど、今から思えば、母をもっと大切にしてあげれば良か ったと、

孝行と 思ふ頃には 親はなし

父母が老齢出産した子供の宿命ですが!

これも片道キップと、二度と故郷に戻らぬと決めて田舎を飛び出して二人分の人生を歩んだのですから、お許し下さい

それでは、北山たけしの歌を歌います。

いつもわがまま 御免よな 詫びているんだ 心の内で 忘れないから お袋よ  せめて笑顔で 片道切符  決めた路なら 決めたみちなら 迷うなー男じゃないか   (歌詞原譲二

この夜空を見ていると、ハンプテイは、故郷の美濃の山々を思い出しますわ!

と、こんな詩を披露される。

小鳥でさへも 巣は恋し

ましてや秋風、鰯雲

秋の枯葉が落ちていく

故郷恋し 伊吹山

チイもロンも、ロン家族を支え、カイガイシイ家族となって、ハンプテイのこと、宜しくお願い致します

カイガイシ 二人で探す 宝貝

チイは、ロンと二人だけとなっても、何時までも、 パパとママとの思い出は忘れないから、

今は、小さい夢だけど、二人の夢を分け 合って、大きく成長するから心配しないで

と、あたかも、ダンプテイの別れのようなご挨拶。それでは、ダンプテイもお別れにと、歌を最後に

ここに残します。

美濃の蓑着て 三度の暮らし

四角四面の シガラミ残し

さよなら三角 またきて四角

資格なき身で 資格を目指し

名残り名古屋で 泣きっ面

五右衛門 お江戸で ごろついて

ろくろく録なく ろくでなし 

最後の勤めは 七つあがた(県)の七つ星

やっと咲いたか 資格の花か

苦労もしました役所の勤め

とうとう来ました 峠の別れ

「マー、何と、良く出来た数え歌ですこと」と、チイからのお褒めの言葉、

それでは、「お別れに当たって、ダンプテイのお父様であり、チイのおじい様の出目をダンプティが元気な内に、伺がっておきたいんですけど」と、チイがその気になってくる。

「それほど詳しくございませんが」、知っている範囲で、お答えいたしましょう」と、ダンプテ一家の出目を語ることに

ダンプテイ親父は、隣の〇家に養子に入ったそうですが、そこは、戸田屋というお菓子屋さんで、大垣と関係があるらしい、何しろ、大垣は、戸田藩ですから、

ところで、大垣といえば、芭蕉奥の細道終結の場所、大垣藩は,日本で一番藩教育に熱心であったとされ、多くの学者を輩出した、

その中の一人には、梁川星巖がいますね!

梁川星巖は、詩人であるが、明治維新では、尊攘派の中核となり、安政大獄の標的であったが、届かぬ前に病死し、世の人は、

彼を詩も旨かったけど死に方も旨かった、死に上手とは、洒落ている。

芳野懐古<梁川星巖>

今來古往 事茫茫

石馬聲無く 抔土荒る

春は櫻花に入って 満山白く

南朝の天子 御魂香し

妻の紅蘭を残して3年間も放浪の旅にでたが、紅蘭も星巖を待ちわびる漢詩を作っている。

階前栽芍薬 堂後蒔當歸。

一花還一草 情緒兩依依

きざはしの前には,芍薬を植え、座敷のうしろには當歸を撒いたが、〈當歸〉は、まさにかえるべしという意味がこめられている。

花には私の姿を映し、草には、私の心を込めて、ああ、私の想いは、この花と、この草に離れたことは、ありませぬ。

この漢詩を機にして、星巌の放浪癖は、その後も変わらなかったものの、これ以降は、妻を同伴して旅をするようになったという。

その他、岩村藩にも多くの儒学者を輩出したが、その中でも、佐藤一斎は、勤皇派として、明治維新に大きな影響を与えたと言われている。

佐藤一斎は、七十歳の時、幕府が設立した唯一の大学である昌平坂の学問所(昌平 
黌を統括した儒官となります。

今で言えば東京大学の総長にあたるひとです。

当時の日 本には全国に二百三十余りの藩藩校があったが、その藩校の中で優秀な成績を収めた者が、さらに昌平黌に進学したことから、一斎は優秀な人たちの中の頂点に立 つ人だった訳です。 

佐藤一斎は、佐久間象山渡辺崋山、横井小南ら三千人の門弟を育て、幕末から明治への激動期の新しい日本をつくった指導者に多大の影響を与えたと言われています。 

若くして学べば、則ち壮にして為すこと有り。

壮にして学べば、 則ち老いて衰(おとろ)えず。

老(お)いて学べば、則ち死して朽ちず。 

これを現代語になおしますと、「子供のころからしっかり勉強しておけば、大人になって重要な仕事をすることができる。

大人 

になってからも更に学び続ければ、老年になってもその力は衰えることがない。

老年になってからも尚学ぶことをやめなければ、死んだ後も自分の業績は残り次の人々にも引き継がれていく。」 

 おそらくこの一文ほど、学びつづけることの大切さを説いたものはないと思われます。 

ところで、 『言志四録』は、佐藤一斎が四十二歳の時に書き始め、八十二歳になるまで書きつづけ、133条からなる語録です。

春風を以て人に接し、 秋霜を以て自ら粛む。

の言葉は、『言志四録』の中で最も有名な一節でしょう。一言で言えば「人には優しく、 自分には 
厳しく」と言うことです

ダンプテイも、なかなか、こうはなれませんね、

他人には厳しく、自分には甘いのが凡人ですから

確かに、確かに、ダンプテイは妻に厳しく自分に甘いわね、と、ハンプテイ

そういえば、戊辰戦争で活躍したのは、佐賀藩と郡上藩と言われ、その貢献で、佐賀藩からは、大隈重信等新政府の重鎮に多くの人材が登用されたけど、郡上藩は、どうだったのかしら?

郡上出身ンハンプテイにとっては、気になるわ!

大垣藩の活躍により、藩主戸田氏友は勲一等伯爵となり、活躍しましたね!

しかし、有名となったのは、氏友の妻と助平宰相と称せられた伊藤博文との鹿鳴館仮装舞踏会での不倫疑惑で新聞等での騒動と不名誉なことだったけど!

それでは、ダンプテイの母方の出目は,どうかしら

ダンプテイの母のでは、美濃市にある曽代という田舎ですね、幼い頃、夏休みには、1か月程厄介になったことがあるけど、曽代用水の水の取り入れ口近くに御屋敷がありましてね、曽代用水では、随分と泳ぎをしていましね!

どうやら、養蚕事業を広めたとか、町会議員とか先生をしていたとか聞いていますが、最後は、叔父と一緒に、製紙販売会社や印刷会社を興したそうです。

ところで、このダンプテイの叔父さん、わしを見ろ 波乱万丈 目が光る、

まさに巨眼の男、西郷隆盛という雰囲気

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デバラ:鷲のように鋭い目のお方は、隆三叔父さんで、美濃の田舎から上京し、印刷界で成功した方で、僕は、名を頂いたゴッドファーザーですね!

良き人に 出会えて 人は人となる 加藤錦三

人生で最高の喜びは,よき人に出会えたとき、そしてその心を学んだときであると思いますね。

ダンプテイが大学を出て、関という田舎街から上京して来た頃には、寂しい想いで過ごしていましたが、随分と考えが甘いと鷲の大喝一声のお叱りを受けたことを想いだします!

ワシを見よ 賢者一喝 稲光る

題 関の弥太っぺの門出を励ます歌

泣くな嘆くな男じゃないか

何時か花咲く時もある 

愚痴や未練は美濃に捨て

男たましいの乱れ打ち

打てば響くぞ この魂

江戸にいでてぞ花咲かせ

たましい男ここに居り

ついつい叔父さんの話に深入りしましたが、ダンプテイの親父は、地味な職人でしてね、コトコトト表具仕事に精を出していました。

表具師の 室を死処とす 冬の蜂 手塚深志城

その思い出の表具師の仕事場は、ブテックを始めた母の店に、変わってしまいましてね!

そのブテックを継いだのが僕の兄というわけ!

今では、本町通りもシャッター道理となってみる賭けもありませんが、とうとう、このブテック店も畳むことになったのは、時代の流れでしょうか!

親父は、美濃市の別宅の地で母と二人の生活

最後の死に所が、表具師としての仕事部屋で亡かったのは悲しい限りですが、これも時代の流れ致し方なしですね!

親父は、大野晩朴と嵐勘十郎を合わせて半分にしたようだと、カンカン帽子を被るハイカラ気取りのダンプテイの親父でございました。

セピアなる 父の写真に カンカン帽 

チイ:この俳句は、ダンプテイのお兄様の俳句だから、ダンプテイのお父様のことを俳句に、されてるのね!

こんな名句を作られるなんて、お兄様の株があがりますね!

随分、曖昧な家族の出目だったけど、少しだけ、ダンプテイの戦時の出目のイメージがチイには、明確になってきたわ!

そうですね、しがない親父ですが

ダンプテイのことを知ってもらえれば、有り難い。

俺がいたんじゃ お嫁にいけぬ

わかっちゃいるんだ わが娘

何時か おまえの喜ぶような

偉い親父 なりたくて

奮闘努力の 甲斐もなく

今日も涙の 今日も涙の

日が落ちる 日が落ちる

これって、星野哲郎が作詞した

男は辛い世の歌での「妹?」を「親父」に置き換えた替え歌じゃないの!

でもチイには、男のロマンを感じるわ!

するとハンプテイ、

男のロマン、女の不満と言いますから涙が落ちるのは、ハンプテイ様ですよ」と不満顔

男のわがままな人生ロマンで、どれだけ、女は苦労を強いられてきたか

いえいえ、ハンプテイ様、男は妻を家に老いて戦場におもむいての戦いの世界、それでも家族への想いは忘れてはいませんから

それでは、ダンプテイのそんな心情を武田信玄の歌のアカペラで

悔いの山々 日に映えて

われ出勤に 憂いあり

おのうの馬は 飼いたるや

妻子につつがあらざらん

アラーザラン 

オマケに一つ

どぶに落ちても 根のあるやつは

いつかは 蓮の花と咲く

意地を張っても 心の中は

泣いているんだ 父ちゃんは

目方で男が 売れるなら

こんな苦労も かけまいに

チイ:これも星の哲郎が作詞した

[男は辛い世]の歌の兄ちゃんを親父にした替え歌じゃないの

ちゃんと、自分の道を自分で切り開いてこられたのかしら?

人真似が多くて、チイも恥ずかしい!

いやいや、真似は、芸術家にとっては、必須の「能力の一つ、田舎言葉を使うのもその芸の一つですからダンプテイがご披露つかまつる。

はよおきんさい おきんさい

まわしは できちょるか

いそがんと まにゃわな

家ん中で 遊んどらんで 外へ行きんさい

帰ったら饅頭すきやで どえらえ買ってれ

かえへん かえへん 金ねえも

こんな方言を聞しちょったら、パパ、ママのこと、思い出しちゃいますね!

ところで、ダンプテイは、大学なでは、ものだったそうだけど、学生時代の甘い思い出はないのかしら

と、チイが聞いてくる。

それでは、と、またダンプテイ

お調子にのって、自慢の花が咲いてしまうから、我ながらあきれる程である。

岐阜大学に通っていた頃に、長良川畔にあった織田信長に縁のある崇福寺の近くの侍屋敷風の家に間借りしていた頃のダンプテイが若かりし話です。

題 侍屋敷の枇杷

長良の姫様枇杷の実好きで 

枝に足かけ枇杷2

1つ残して袋に入れて 

自転車乗るときポテンと落とし

拾うに拾えず捨てるにゃ惜しい

殿は見ぬ振り鴉が拾う

侍屋敷と思えるような、垣根に囲まれた大きな藁ぶき屋敷には、庭の片隅に枇杷の木が何とも不気味な気配で、茂っていた。

職業の わからぬ家や 枇杷の花 子規

枇杷は、家の近くに植えると病人がでるとか死人がでるとか忌嫌われていましたから、それこそ、こんな屋敷には、どんな人が住んでいるかと、垣根越しに道行く人が覗きこんで通っていくのである。

枇杷の実や 誰が昔より 垣の外  

この俳句は、蕪村の

白梅や 誰が昔より 垣の外 蕪村

を引用したものである。

垣根の外からは、

侍の家系 痩せゆく 枇杷の庭

と、この侍屋敷は、思われているに違いないが、その住民たる私は、庭にそんな枇杷の実が成っているのもトンと気にも留めていませんでした。

枇杷成るか 裏庭とんと 用がなく 

注:元句は、枇杷咲くか裏庭とんと用がなく 大橋敦子

ところが、

ときは、ころしも夏の頃

涼みに庭に出てみれば

14、5.、6の女学生

垣根に股かけ 手を伸ばし

枇杷をとるかな ビワの胸

女学生が騒いでいるので、「何事か」と、外を覗いてみると、ミニスカートから綺麗な御身足を出して枇杷の枝に手を掛け、枇杷の実を獲ろうとされている。

おっぱいもブラウスがはち切れんばかりに膨らんでいる。

卯の花の 匂ふ垣根に 時鳥 はやも来鳴きて 忍音 漏らす 夏は来ぬ 佐々木信綱

杜鵑ならぬ女学生の枇杷盗女の忍び音が聞こえてくる。

ところで、今は、岐阜や名古屋に残した歌姫ですが、甘い思い出は、いつまでも心の中に

美濃に残しし琴姫の

夢にぞいでしその姿

いまこそ話せんその雅

題:マンドリンの友さらば

古琴の友よいざさらば

去りし学び舎稲葉

東は鎌倉春の陣

西は大阪夏の陣

管鮑の友よいざさらば

長良に映す残月の

再開のあらん雁の声

チイ:岐阜城稲葉山とも金華山ともいうのよね、こんな稲葉山の麓でのマンドリン弾きの乙女との別れもあったのね!

夢の大学 入りし頃

庭に聞えしは ああ荒城

千代の松が枝 分け入りて

音に誘われ 尋ねれば

月より出でし かぐや姫

それは異なるや 琴抱いて

奏でるトレモロ 心に響き

琴の虜に なりました

すっかり、マンドリン娘と打ち溶け合って、仲良くなり始めた頃、夏休み合宿がお寺の境内であり、男女20名程の仲間が胡坐をして、パラリコさんに夢中となっていました。

お寺の庭の蛙の鳴き声、それが気になって、庭に抜け出して小さなアマ蛙を小池の中で捕まえました。

アマガエルを手の中に隠しもって、気になっていたお嬢様の前で、「パラリコさん、パラリコさん、ほらパラリ」と言って、手を開いて、ビックリさせてみました。

開けてびっくり玉手箱、蛙さんがびっくり仰天、開いた手からジャンブして、お嬢様の枇杷胸の中に飛び込んでしまいました。

ダンプテイは、その枇杷胸の中に手を入れて蛙をとる事もできず、オロオロするばかり、お嬢様は、その場に鳴き崩れてしまった。

ああ無情、無情のレ・ミゼラブルで、

露草や 蛙飛び入る 胸の中

枇杷胸や 蛙飛び込む 姫の声

チイ:「剣を忘れた若者が恋の蛙となりました」という恋話というわけね!

若き日の 琵琶の思い出 枇杷の花

ここは、勇気をもって、枇杷胸から蛙ちゃんを取り出してあげるべきだったわ!

デバラ:そんなことしたら枇杷の実は、とっても甘くて美味で、触っても何とも言えず、ウフフフ

枇杷の実は 触っても良し 味も良し

ウフフフフ 桃に似て

チイ:そんな乙女に許されぬ意地悪なことをして、乙女との柵で、マンドリン弾きの乙女から爪弾きされなかったわね!

それにしても、乙女の枇杷胸に、蛙を飛び込ませて、それを口実に一寸失礼と、のぞき込むなんて、

侍とは 死ぬことと みつけたり

と、それこそ、この枇杷の木に潜むアルマジキ葉隠れの茶坊主の悪戯では、ござらんか!

あるまじき ひそむ葉隠 枇杷二つ

チイ:葉隠中に潜んでいる枇杷の実二つって、何なの?

デバラ:知ってるくせに、このカマトト娘

葉隠れとは、古来、男の褌は、無花果の葉からの発展したもの、その褌に隠している男の宝物こそ「葉隠れ」、というもの、

葉隠 隠し種 枇杷の種

先ほどから、ダンプテイ、自分のこと殿、殿と

ゆく春も 重たき琵琶の 抱き心 蕪村

と、私を枇杷ならぬ助平な琵琶法師にしてしまって、浮気を薦めるとは不届き千万!

題 枇杷の恋の思い出歌

枇杷は、薬か贅沢か 

母へ感謝のよりどころ

遠いえにしの かのひとに 

夜ごとの夢の切なさよ 

枇杷は蛙の 思い出か 

悲しい恋の捨て所

残る思い出枇杷二つ

岐阜の果物といえば、枇杷ではなくて、柿二つよ!

冬の景色といえば、軒先に干してある吊るし柿

古びた藁屋根に赤い柿の実が、鮮やかに目によみがえりますね!

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ふらりふら 見知らぬ家の 吊るし柿

美濃は、富有柿の産地、田舎に行けば、どこの家にも柿の木が植えられていましたが、

里古りて 柿の木持たぬ 家もなし 芭蕉

これは、嫁入りする娘が苗木を嫁ぎ里に植えて、子供の成長と共に、その木を育て守り続けた習慣があったそうですね!

ですから、学校帰りに他所の庭に成っている柿を摘まみ喰いをしてましたね!

デビル:柿の木や 盗み食いとは 無分別

石川五右衛門の大泥棒も柿の盗み食いから盗み癖が始まったそうですから幼い頃の習慣は、恐ろしいわ!

チイ:咎めを受けてのその理屈が面白いのよね!

柿は持ち主のために実をつけているのでは、ない、柿は、誰かが吐き捨てた柿の種が勝手に実っているだけじゃ、川の水のように、誰でも自由にとっていいもんじゃ!

これが、後に大泥棒の無分別の盗人になったそうですから、幼いころの分別は、大切ですね!

デビル:ところで、美濃の国、関出身の芭蕉門下生の「惟然」も柿が大好きで無分別

広瀬惟然は、育ちよき家柄であるが、家を捨てての放浪歌人に、芭蕉との別れの際には、

別かるるや 柿食いながら 坂の上

俳諧師に似つかわしく、飄々として柿を歩きながら食べる様を句にしています。

当然に野柿を盗みとりして食べていたに違いない。

デバラ:こんな性格だったから惟然は、無分別の高みを理想とした特有の俳風と、なっていったとされますね!

そんな、惟然が幼い頃に、遊んだであろう、善光寺界隈

鐘一つ はや日短かの 善光寺

幼い頃の美濃で過ごした善光寺の鐘の音の響き、そして、母と過ごした田舎言葉を思い出します。

母:「寝ちょっとらんで、 はよおきんさい、そんして、ハヨまわしして学校いきんしゃい」

僕:「手が凍って釦かえへんよ」

母:「ほうかね、ほうかね、しっかりしちょんさい、学校から帰えちょったら、デレー好きな干し柿食べる

星が着もいいけど、熟し餓鬼も甘くて美味しい。

 

ところで、美濃加茂の蜂屋柿で、徳川家康大垣城に迫った時に、地元民から、この甘いアンポ柿の提供を受けて、「われ、戦わずして大柿を手に入れし」と、駄洒落を発したとか

その後蜂屋柿は、徳川家への上納品として年間三万数千個にも及んだとされる。

今では、全国の生産量は福島県に敗けていますが、当時は、この地の小説家「坪内逍遥」が蜂屋小学校の校歌をつくっている程有名であったようである。

千歳のその名に高く

雲居の供御ともなりぬ柿

蜂屋、蜂屋、蜂屋、蜂屋

ところで、家康に関ヶ原の戦いで敗れた石田光成の柿の逸話が面白い

光成、家康に処刑されるとき、喉が乾いた水を暮れと懇願したら、水は、此処に無い、柿ならあるがと柿を手わされると、「柿は、体を冷やし、お腹を壊すことがあるから、いらない」と、答えたそうです。

柿喰えば 下痢になるなり 関ヶ原

ところで、冬になれば、吊るし柿もいいですね

富有柿の産地である美濃の景色が思い出されます。

柿すだれ 三度乗り継ぎ 無人

東京からだと、新幹線で名古屋で乗り換え、名鉄で岐阜まででて昔は名鉄美濃町線が廃止になって、今は、長良川鉄道で美濃関まで

廃線のレールが揺れる大暑かな 岡田峰明

ここで、

チイが、ダンプテイの股蔵を覗いて、マー嫌だ、この親父、服装もだらしないとはおもっていたけど、暑いからといって、ズボンのチャックも観音開き!

ご不浄や 股間に下がる 柿二つ

これが、美濃に伝わる伝家の宝塔、関の孫六の宝刀ですから、御開帳が原則となっています」と、冗談を言ったら、チイは、真に受けて

:「嫌だ、この禿げ侍、ベロも出すかと、思ったら一物も曝け出して!

それになんですか、ピンク色の眼鏡なんかして!

チイ:蜻蛉の眼鏡は 桃色眼鏡 桃色ネオンを 飛んだか ら飛んだから

飛んでもございません、この助平親父

夜のネオン街に、さ迷い歩いて、目は桃色

それに、ツルリン頭がツルリンと一皮剥けた枇杷の実みたいで、エッチな風貌、

さすが、大奥の女と遊びまわったエロ殿のDNAを引き継いでおられる。

そういえば、

枇杷食べて 君とツルリン したいなあ 坪内稔典

なんて、エッチ先生の俳句もあったっけ!

でも、こんな枇杷頭のツルリン親父では、乱れ髪と、いうこともないし

デビル:でもそのカイゼル髭だけは、御用心よ!

キスした後の口髭の手入れには,ご用心ね!

この親父の頭髪の乱れはありえないけど、その淵卑下の乱れよう

枇杷抱く 夜は乱れし 口の髭

裃や 垂れた褌 芋を出す

こんなもの開帳したら、ネットの炎上は、間違いなしよ!

と、流石ネット時代の娘、ネット炎上を心配なさる。

炎上の まぬがれえぬや 御開帳

ダンプテイの故郷、美濃の関の吉田観音は、9月9日は、秘宝を一度拝めば9万9千日拝んだ効果があるとか!

物種を握れば 生命(いのち) ひしめける 日野草城

厭らしいわ、お祈りだけだとおもったら、物種を握るなんてチイ恥ずかしい!

いっそ、チイとハンプテイで、ダンプテイを吊るし柿にしちゃいましょう。

失礼しました,失礼いたしました。

秘宝を御高覧あれというつもりでしたが、もの種を握って、下さいなんて、とんだことを申し上げてしまい、ダンプテイの一物もタラタラ、冷や汗もタラタラ!

それでは、チイが扇で仰いであげましょうか

ばさばさと 股間に 使う 扇カナ 丸谷才一

こんな親父には、

褌に 団扇さしたる 亭主かな

がぴったりで、本当に嫌気タラタラ、オサラバしたいもんですわ!

仰げば尊し、わが師の麻呂

教えのにはには はや幾く年――

今こそ分かれ目いざさらば

 が、この股間親父の御別れには、こんな歌が、ピッタリかしら 

神社の秘宝ならずとも、街中で、ジッパーを開けたままの親父は、それこそセクハラ行為、

誰かからそれとなく「オープンですわ」と、忠告されても、そんなときは、「股 やっちゃった」と、反省するような振りを見せるけど、またやるのは、時間の問題、ダンプテイには、反省が全くありませんから、伊吹の山に翁捨てといたしましょう。

伊吹は、太田道灌もこの伊吹山で大雨に降られて

借景の 伊吹も見えず 初時雨

ある農家に雨乞いをしたけど、美濃傘すらありませんと、酷い仕打ちを受けたところ、そんなとこりろでは、生きていけません、ハンプテイのそんな惨いダンプテイ虐めは、勘弁ください。

確か、この山吹の歌、この美濃の伊吹山には、山吹は一杯咲いているけど、ハンプテイの庵には、お貸しできるような蓑は、なにもないのが悲しいですわ!

と、山吹の一枝を丁寧に差し出した御断りの筈だったわ!

山吹は、花は一杯つけるけど実をつけ

ないという意味も含んだ、頓智のきいた歌、

傘は蓑傘というけど実を貸すという意味も含んでいて洒落てますね!

そういえば、ダンプテイの故郷の岐阜は、提灯や傘が、名産でしたはね!

蓑と美濃をかけた歌、こんなのは、いかがでしょうか?と、ハンプテイ

美濃に妻もち 尾張に住めば 雨は降らねど蓑恋し

美濃の隣が尾張の国、当時は、御足も無いから、お隣に住んでるハンプテイを懐かしむわけ

夢に見る妻、目覚めたベッドをまさぐるのに。ハンプテイの指先が触れることができない。

大伴家持は、

夢の愛 苦しかりけり 目覚めつつ

かき探ぐれども 手にも触れねば

元歌

郡上八幡城、松倉城大垣城岐阜県お城の伝説が多いのも同じ出身地のものとしては気になるところである。

特に郡上城では、人柱となったおよしという女性の霊を慰めるおよし観音なるものが城内にあるということである。注:呪い術と占星の戦国史

関には、名無しの木と言われる気が安桜山の裏にあったが、こんな謂れが残されている。

村の庄屋の大滝金右衛門が干ばつ続きで農家が生活に瀕していたために代官に年貢の軽減をなんども乞い願うも許されず、その代官を思い余って殺してしまったため、磔の刑を受け、農民は、その亡骸を弔ったところから一樹が育ち、この木は霊樹であると、村人から、この地に残されてきた

野口雨情は、関を訪れて、子の木の謂れを知って、

詩を残している。

田んぼの中の名無し木

花から目が出て葉が伸びる

嘘ならこの夏、いってみな