ハンプティのブログ

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ダンプテイ親父の錦糸町生活 ーその3

菓子の町錦糸町

錦糸町と言えばお菓子の話を避けるわけにはいきません。私も菓子店のみが錦糸町北口の街を軒を連ねていた頃の様子は知りませんが、この経緯は、昭和4年頃に神田区に有った菓子問屋街が、東京市の指導により集団移転してこられたということで、その当時は、この辺りは、荒れ地であったということです。錦糸公園の南側の通路沿いや西側地区あたり一体は、菓子店が並んでいて、最盛期には、250店ほどの菓子の製造や販売店があったとのことである。しかし、近年になり、菓子の流通機構が変わり、また、二代目に入り跡継ぎがなく貸しビル業や飲食店その他に変わっていったそうです。私が夕食によく行く、吉野飯店や水野などのおじさんは、菓子店から転業された方たちです。

今では、アルカイーストの太平さんとか、北口のエンドウ等の店や菓子会館の事務所などが当時の名残を残すに過ぎない。

菓子店がここで盛況であった頃、風邪が強く火事が多く発生したそうで、そのために稲荷を造ろうと錦糸公園にある千種稲荷が祭られたそうで、その後は、そのお陰か火事も収まったとのことである。

菓子店の他には、ガラス関係の工場や、何といっても錦糸公園の北側にある精工舎の従業員により活気があったといわれています。精工舎は本所にあった精工舎第一精工舎といい、主としてウオッチを造っていて、京葉道路沿いの亀戸にあったのが第二精工舎といい、クロックを製造していたようである。共に、「都会に今更工場はないであろう」ということで、平成に入り閉鎖され、第一精工舎はやっと今年に入って取り壊しが始まり、墨田区の都市計画として高層ビルの街に変わりそうである。第二精工舎は、既に、サンストリートとしてショッピング街になっています。また、待望の地下鉄も開通し、錦糸町も南口の風俗街から北口の近代的なセンスある街に変貌しつつあるといえよう。

錦糸町界隈には、釣りの店が多いのに驚いている。そもそも、錦糸町界隈は釣りが盛んで、よく魚がつれていたことは、錦糸掘りの「おいてけ堀」の本所七不思議でも出てくるお話しからも分かる。この掘は、どこにあったか色々と説があるが、南割下水として大横川と横十間川との間、北新開発地区に隣接する所謂「そごう」の北の長崎橋道路のところに流れていた錦糸掘りであるという説が有力である。

この近辺は、川向こうで、下級武士が住んでおり、彼らの勤務は、たいていが午前まででノンビリとしてはいるものの見入りはよくない生活を送っていたと思われる。よって、娯楽を兼ねた生活の糧としての釣りが盛んであったことが推定される。「おいてけ掘」では、折角釣った魚が盗られるれてしまったという切実な釣り人が昔話に登場するわけである。これは友人から聞いた逸話であるが、この近辺に住んでいた庄内藩の殿様がここで、大きな1尺2寸の鮒を釣ったということで、家元の山形県鶴岡城に魚拓として持ち帰ったということである。鶴岡市内にある「釣り馬鹿会館」に「錦糸掘御獲鮒の図」と題して魚拓が展示してあり、それが日本で最古あるいは、最大の魚拓であるとのことである。

天保10年に釣ったとされているので、1839年で天保の飢饉の後であり、食料の足しにということで、かかる江戸詰の武士の間で釣りが盛んに行われていたことが分かる。このことと釣りの店が多いということとの関係は不確かではあるが、本所地区は、このような堀川が縦横に流れ、また海も近いこともあり、市民の間での釣りの趣味は、代々受け継がれているものと思われる。


 (錦糸堀の名前の由来は)

錦糸町という優雅な名前の由来については、一般に、錦糸掘が近くにあったため、元はといえば、この辺りは岸堀が多く、それがなまって、錦糸堀が由来といわれている。

錦糸掘は、南割下水といい、今の江戸博物館と横十間川との間の下水で、大正12年に埋められ、そごうの北の北斎通り(葛飾北斎が住んでいたところに由来)であるが、今では見る影もない。

錦糸掘は、元は岸掘りといわれていて、これがなまったものとの説がある。

江戸時代の服部南郭という人が作った漢詩に「夜墨水を下る」がある。

金龍山畔江月浮かぶ 江揺らぎ月湧いて金龍流る 扁舟住(とど)まらず天水の如く 両岸の秋風二州を下る

龍は、江戸城からみて隅田川の方角が青龍の神が宿るとされ、川の神として隅田川が想定されている。このことから隅田川西側にあった山が金龍山で隅田川の流れがこの山から観て月が浮かぶ金龍が流れると歌っているわけである。このことから隅田川の東を流れていた南割り下水の先にある細い掘川は、夕日に照らされ、きらきらと輝く糸のように観察され、情緒ある文化人はこれを錦糸と呼んだと想定するのはいかがであろうか。

夕月や金龍に流れ入る錦糸(にしきいと)

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江戸時代には、人と物の移動の中心が川にあったために、本所地区は計画的に掘川が整備されていった。

川や掘は、下水として重要で、当時は千葉方面から農家が農業用の肥料としての人糞集めに、船が往来していたようで、この船を葛西船とも世ばれていた。この人糞は、

店中の尿で大家は餅をつき

と詠われたように、長屋の大家の大きな収益源となっていたようである。

葛西船掘りへつけるもこいの道

という川柳は、肥船が葛西方面からやってくるが、これは吉原などに向かうための恋の道であると共に江戸市民の人糞を運ぶ肥の道であったわけである。

この錦糸掘は大正12年に埋められて今は、見る影もないが、江戸時代には、この近辺は、「錦糸掘」という名前として歌舞伎や書物にでてくる。例えば、河竹黙阿弥の「身元於竹功」という芝居の第二幕に「錦糸掘り浪宅の場」が登場する。

河竹黙阿弥も本所二葉町に住んでいた錦糸町には縁のある人であるが、何といっても「知らざあ――言って聞かせやしょう、浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の――」で、始まる白波五人男の歌舞伎18番は有名である。

江戸時代には、人と物の移動の中心が川にあったために、本所地区は計画的に掘り川が整備されていった。

明治時代になると、このような海運の便から、多くの工場がこの地域にもたらされ産業発展の基盤として寄与した。

このような状況について、永井荷風は、小説隅田川の中で、隅田川の登場人物、長吉は、本所の街をテクテクと歩いた下りとして

「どこまで歩いていっても道は狭く土が黒く湿っていて、大方は路地のように行き止まりかと危ぶまれる程曲がっている。――陰鬱な小家は不規則に限りなく続いていて、その間に時々驚くほど大きな門構えの見えるのはことごとく製造場であった。瓦屋根の高くそびえているのは古寺であった。古寺は大概荒れ果てて、破れた塀から乱塔場がすっかり見えるのであった」と書いている

例えば、日本で始めてといわれる清水誠のテング印のマッチ工場が両国高校のところにあった。

精工舎が明治の中頃に時計工場を、その他、花王石鹸や鐘淵化学なども墨田区が発祥の地となっている。

また、関東大震災の復興計画の一環として、軍の施設であったところに防災対策としての錦糸公園が造られると共に、神田地区にあった菓子業界がまとまって北口に移転し、北口の職人の街として賑わいをもたらした。

このような震災後の整備は、後藤新平による、政策によるものとされる。

話は戻り、錦糸掘があったために、この地区の町名が錦糸町となり現在の総武線の駅が錦糸町となっている訳です。当初は、本所駅と言って現在の場所よりも両国寄りの横川に近いところにあったようである。明治27年頃は、本所駅が始発駅だったわけだが、その後総武線が両国まで延長されたため、その後、現在の場所に移動し、錦糸町命名された。このように駅が移転したのは、錦糸町の近くに、日本で最初といわれている汽車製造工場が今の楽天地のところにあったからかもしれません。

汽車製造会社は、元は、平岡工場といわれ、ニュヨークのダイヤモンドスタンドで始めて日本人が球を投げたといわれ、日本で最初にカーブを投げたあの平岡煕氏が経営していた日本で最初の汽車工場であったそうである。楽天地は、阪急と宝塚の経営ですから、ここに、映画館が設立され、錦糸町の駅がこの場所に移された関係が見えてくるような気がする。

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その後、東京都内には、都電の交通網が発達していったわけですが、錦糸町の界隈は、多数の電車が錦糸堀という駅名で始発ターミナルとなっていたので、錦糸町という名前と共に錦糸堀という名前がよく知られるようになった。

現在の財団がある場所は、デパート「白木屋」となっていて、その後に経営が都に移り江東デパートとなり、そこが都電の始発の中心となって賑わっていたようです。

特に、今の楽天地には、温泉が出たことがあって、グランドファンテンとして、あるいは、映画館やキャバレー街となり、地下にはストリップもあったとかで、歓楽の中心地となり栄えたわけです。その頃から、錦糸町には、赤線、青線街としても知られるようになったとのことです。

人の移動は水から乗り物に移行していったわけであるが、自動車の登場により都電も昭和40年頃から衰退していくこととなった。錦糸町駅は、昭和50年頃は、都内でも最も賑わっていた地域で、錦糸町駅の一日の乗車人数は6万5千人といわれ、新宿や渋谷を上回って都内随一であったということは、現在では、信じられない話です。地下鉄も東西線錦糸町を通る計画であったが、地元の反対で、計画が中止されていたわけである。今から考えれば、このような反対運動がなく地下鉄が通っていたら、錦糸町辺りはもっと様相が異なっていたものと思われます。時代の先を読まない反対運動の顛末である。

このように新宿、渋谷などの繁華街に大きく遅れをとった墨田区であるが、昭和61年頃から東京都の未来計画では、錦糸町はお台場など臨海地区と同様に新副都心計画地域となり、地下鉄8号線と11号線の乗り入れと北口新開発が計画され、平成9年に北口の新開発地区が完成し、11号線地下鉄は平成15年に貫通が予定されている。なお、8号線は、東西線が北に延びて11号線と住吉で合体するとの計画である。半蔵門線住吉駅のホームはすでにこの計画を取り込んでホームが作られているのを参考までに述べておく。

更に、バブルによる地下の高騰は、錦糸町界隈の工場の閉鎖が進むこととなった。代表的なのが、錦糸公園の北口にあった第一精工舎と亀戸にあった第二精工舎である。第一精工舎の跡地は、今年になって取り壊しが進んでおり、平成19年には、新しい都心再建計画として大ショッピングと超高層ビル街に変貌する計画となっている。

楽天地の突き当たりの処には、場外馬券売り場と馬頭観音があり、その後の改築により、これらは丸井側にそれぞれ移動された。

競馬の関係と馬頭観音との関係があるかは不明ですが、場外馬券売り場と共に一緒に馬頭観音が江東観音と共に、移動しているのは関係があるのかもしれない。いずれも、楽天地の経営と場外馬券の貸しビルとは同一経営で、宝塚などの東宝映画と阪急電車など、交通関係と映画関係の経営が元汽車製造会社との経営との関係で結びついたものと思われる。なお、現在のトラフィックビルは、都のものと聞いているが、これも都電との関係で、一時都バス案内所が財団の一階にあったことも関係としているようです。

以上のように、錦糸町界隈は、川の整備による海運による工業化から、都電や総武線による交通網の発展、自動車社会と地下鉄の整備などと共に発展を来たしてきており、時代の流れを感じさせる。




休日の錦糸町

 (ダービイ通りとフリーマ)

錦糸町の休日は、普段と違う様相を示していることを紹介する。

まず、普段と違い南口、特に、丸井の辺りが中高年者で賑わうのである。特にダービー通りといわれるところは歩行者天国となり椅子やテーブルが道路に出されて飲み会が始まったりしているのである。言わずもがな、場外馬券を買い求めて下町から多くの人が集まってくる。どの喫茶店も、馬券を買うためのレース枠を書くカードと乗馬新聞とを睨めっこしている人で、私は、このような経験がないので、最初は何をしているのか理解出来なかった。馬券売り場近辺では、このような客目当てでの軽食や飲み物売り場が活気づいて、「只今競馬中継しています」という看板も店の前に出されている。レースが終わると魚寅のぶつ切りマグロの前は長蛇となり、楽天地のサウナも繁盛するというわけである

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土曜日には、私のマンションの直ぐ下の横十間川の船乗り場からお台場に行く観光が出るのである。私も家族と二度ばかり利用したことがあるが優雅な雰囲気に浸ることが出来、帰りには、深川の高橋に降りて、有名な深川の鰌鍋を味わうのもおつなものである。

北口では、月に一回開催されるフリーマーケットが結構賑わっている。下町なので、あまり高級品がなく、ガラクタ品や衣料品が多いようである。中には、これに紛れて新品の掘り出し物もたまにあるから面白い。

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花見挙げその場のフリーマ頭垂れこ
の川柳は、李白漢詩「静夜思」を思いだしての作である。

牀前月光を見る

疑うらくは是れ地上の霜かと

頭を挙げて山月を望み

頭を低れて故郷を思う

故郷を思う心情を世俗なフリーマの川柳にするなど罰が当たりそうである。

私もこのような経験は、始めてなので、ぶらりと見学したこともあるが、私の体型にピッタリのジャケットが500円ということで買ってしまった。丁度、暑くなりかけの季節で、サーチルームのクーラーもワイシャツだけでは冷えるが背広を着ていては蒸さ苦しいので、「なんとかしたい」と思っていたときだったので、このフリーマーケットで買ったジャケットを前にして、自分で襟なしのジャケットにデザイン変更しようとスケッチをして、錦糸公園前の洋服屋「錦糸テーラー」のおじさんに、そのデザインを見せて、このようにして作って下さいといって、作り直させた。ちょっとした旅行などに気楽に着ていけるものとして重宝している。

また、休日には、いろんなイベントが開催されることがある。錦糸掘公園では、毎年錦糸堀祭りが開催され、また、錦糸公園でも墨田祭りが開催され、地方の名産店が並び、踊りや歌謡大会のような催しがある。私も愛宕会での舞台があったために、舞台度胸をつけるために、墨田祭りで武田節を舞ったことを告白する。おそらく、地元であれば知った人がいたり家族の反対にあい、このような舞台に出るということはないが、ここでは知る人もないので平気に出られたわけである。結構地元の老人なども踊りをされる方が多く、他の出演者から「どこで踊りを教えておられるのですか?」なんて、質問されるとおせいじであっても嬉しくなるものですが、後で考えるとこんな誉め言葉もあるのだと勉強になった次第である。