ハンプティのブログ

ハンプティ・ダンプティのように、いつもずっこけぶりを発揮しています。

ダンプテイ親父 秦野の歴史を語る

秦野は、丹沢山系に囲まれた盆地で、風光明媚なところ、国道246を伊勢原から秦野に車で善波トンネルを車で抜けると、そこは別天地の盆地,眼前には、富士山が聳え立ち、名古木の街々を眼下に望む。

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この様子は、広重の絵からもうかがわれる。

ところで、秦野の地名の謂れであるが、波多野氏が、鎌倉幕府時代に居を構えていたところ、その歴史は古く、昔、秦始皇帝は、徐福と、いう人から「中国の東に蓬莱山の島があり、そこに不老不死の国がある」との話しを受けて、徐福に「莫大な資金や船の提供、3千人の少年少女を供させて、不死の薬を求めて蓬莱山に向けて船出させた」と、言われている。

徐福は、中国に戻ることは、なかったとされ、蓬莱山を見つけたかどうかは、謎とされるが、日本の多くの地で、徐福が渡来したとの伝説が残っている。その一つが、この秦野の地

徐福が秦と名乗って、この地に、訪ずれたとき、山々に囲まれた美しい野山は、故郷の秦国の地に似た景色だと、懐かしみ、この地に秦の野として住み着き秦野の名が生まれたとの説がある。

その説の真偽は、定かでないが、此処を訪問した人は、そう思うのも、むべなるかな、大秦野や渋沢野駅近傍から眺める丹沢の山々は、実に清々しい。

この地に生まれ育った歌人前田夕暮

自然がずんずん 体の中を通過する 山山山

こんな歌を残している。                      

なお、秦野近辺には、全国的にも珍しく、縁起の良い名前を持つ福住家(二宮尊徳の後継者、福住正兄等)も、徐福が住んでいた、とも読めるわけで、この徐福逸話と、関係しているのではと、個人的に推察するが、これは、こじつけでしょうか!

秦野が美しい山に囲まれた地であることに関連する伝説に平将門の話がある。

今から千年以上も前、平将門が関東を征服している時、この秦野の地が京都によく似ているので将門が気に入り、元町の龍門寺辺りに、館を構えたとされる。

その名残として、将門の館のあったところを「御門」といい、現在の龍門寺(秦野市本町)のある辺りで、近くには加茂、祇園、清水、河原町など、京都と同じ地名が残っていて、「付近の浅間山に軍用金を埋めたとか、龍門寺の側に隠れ穴があった」と、いう言い伝えがある。

どうやら、平将門は「秦野に都を築こう」と、考えていたようである。

夢の中に一匹の白狐が現れ、「秦野は、地域も狭く、地形も不利であるから止めなさい」と、告げられ、将門は、「近くにあったお宮にお参りし秦野の地を後にした」と、伝えられる。

村人達は、お宮があった地名から「鴨居稲荷」と、呼んだと、言い伝えられる。

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注:参考秦野市役所 広報頼参考

秦野市は、将門の伝説を色濃く残す土地で、「将門の弟・平将文(相馬五郎)がこの地で相模地方を治めた」、という伝説があり、将文が相模守になった頃、海老名国分寺から大日如来像を、ここ大日堂に移し、この寺を「覚王山安明院国分寺」と称したとされる。

また、蓑毛行きバスで終点「蓑毛」下車すると、大日堂の別当寺があるが、この寺の縁起によると、将門が乱を起こしたとき、秦野の五大尊の宝物を奪い去ったとされ、将門の死後、将門の娘・如蔵尼が大日堂に参籠し、潜伏した後、百日目に地蔵菩薩霊夢を受けて、奥州福島・恵日寺に逃れ80歳まで長寿を全うすることができたとも伝えられる。

 時代を遡り、弘法様に関する伝説では、弘法様が旅僧であった頃、秦野の山野に行き暮れて、百姓仁左衛門の家に一晩の宿を頼んだところ、快く迎えてくれた。

ある日、弘法様が「近くの山で修業をしたい」との話を聞いた仁左衛門は、村人たちの助けを借りて、山の上に小屋を作くりました。

その小屋で弘法様は、暫く修業をしました。

あるとき、弘法様は、「火事があるだろう」と、予言をすると、その予言通り、村に火事があったので、村人は弘法様が火を着けたと思い、弘法様を追い出そうとした。

しかし、その夜、弘法様が村人に予言して言った通り、嵐になり、何件かの家が川に流されたり、風に吹き飛ばされたりした。

それからは、村人たちは弘法様のおっしゃることを信じ、尊敬するようになった。

弘法様が去った後、人々は小屋のあった山を「弘法山」と、呼ぶようになったということです。

また、弘法山の頂には、「乳の井戸」と、呼ばれる井戸があります。

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この井戸からは、白く濁り、乳の香りを漂わせた水が湧き出ていたそうで、赤ちゃんを持つ母親がこの水を飲むと、乳の出がよくなると伝えられている。

さて、弘法山から海の方向を見渡せば、秦野の全景と相模湾が広がる絶景、此の山の麓に、三国道246の道脇から、歩いて10分程の山を登れば、この三島の社に着くことが出来、枝垂れ桜が見事である。

ここは、この善波には、善波太郎重氏という侍がおり、弓の名手、奥方が大層美しい方であったといい、その末裔の故か、善波は、美男美女が多く、特に女は「善波女」と、言われるぐらい評判だったので、近在(水田地帯)の男衆が競って山越えして押し掛けたという話が伝わる。

善波太郎重氏は、弓の名手として知られており、この館から弓を放ったところ、空を舞っていた旗が地に落ちたところが落幡だと、伝説される。

矢を放って、矢が落ちたところは、矢野、すなわち、矢名というのは、ちょっとこじつけであろうか

善波峠や善波トンネルは、この善波太郎重氏に因んだ名前であることは、いうまでもない。

この落幡は、この近辺の地名であったが、今は、落幡神社と、神社の前を下ったところにある下落幡橋に名が残るのみである。

この神社は、4月第2土曜日が、祭りで賑わい、昔は、 街芸人がちょっとした歌舞伎芸の披露等があった。

また、最近は、正月には、御餅や、お酒等が無料で振る舞われ、参拝者が行列をつくる。

いずれにしても明治8年に、この神社があったというから歴史は、相当に古い。

そして、この地にあるのが、大根公園、何故に、鶴巻、落幡にあって、大根公園なのか、鶴巻在人として不満は、あるが、今では、伝統ある大根駅が、東海大学になり、昔の大根なる地名が、学校以外で無くなったため。良しと、すべきであろう。

さて、何故に、この辺りの地名が大根なのかは、知る由もないが、この地区の名産が大根であったことは、確かである。

家庭農園として、野菜を栽培しているが、大根だけは、特に苦労することなく毎年、豊作なのは、大根がこの地に適しているのかもしれない。

いずれにしても公園でのテニス、プールと、色々運動施設が整っているのは有難い。

そして、公園の中の、彫刻や、夕暮れの歌碑等文化的な雰囲気を散歩しながら味わうことも楽しみである。

ところが、この公園の辺りは、大根川と鈴川との合流地からも近く、大雨が降ると、いつも水害に合うところで、県営団地の辺りも、和泉が沸くようなところであったと言い伝えられる。

此処から伊勢原に近いところには、根丸島なる地名があり、古代人が住んでいた根丸島古墳があったそうであるから、この近辺は、平塚から続く海が入り込んでいたと、思われる。

福島沖地震のときには、この近辺の揺れは相当に酷かったそうである。

というのも、この大根公園辺りは、沼地が広がり、底なし状態で、「子供は、此処には近寄るな」と、言われたところもあり、夏になると、蛍等も見られたところである。

しかし、今では、その蛍が縁かどうか分からないが、光の街として住宅街と、なっている。

少し、伊勢原方面に向かうと、紫陽花散歩道が、水壕の土手に渡って、続いており、散歩コースとなっており、牛や、豚の飼育場等もあり、のどかな雰囲気を「残している。

弘法山の伝説に関しては、こんな話がある。

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昔、修業のため全国行脚していた弘法様が、この地の農家に立ち寄り、一杯の水を頼んだが、生憎、水をきらしていた。

この付近には井戸も水もないので、娘さんが「しばらく待っていて下さい」と、言って、弘法野山裾まで水を汲みに行きました。

弘法様が待ちわびていると、娘さんが水の入った手桶を重そうに下げてきて、柄杓に水を入れて、差し出すと、弘法様は、美味しそうに水を飲み、何かお礼をと案じていました。

この村が水に困っている様子なので、弘法様は、庭の真ん中で、杖をつき立てました。

そこを娘さんが桑で掘ると、不思議にも清水がコンコンと湧き出しました。

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それで、この清水は、「弘法の清水」(臼井戸)と呼ばれるようになったそうで、秦野市の臼井戸という地名の謂れと、される。

なお、弘法山には吾妻山があるが、この謂れは、環境庁の神奈川県書物によれば、日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から船で房総に向かう途中、静かだった海が急に荒れ出していました。

そこで、妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」 と、海に身を投じられました。

すると、不思議なことに、海は、静まり無事に房総に渡ることが出来た。

征伐後、帰る途中相模湾三浦半島が望めるところに、立ち、今は亡き弟橘比売を偲ばれ、「あずま・はや」と、詠まれた場所が秦野の吾妻山だと伝えられている。

ところで、我が秦野市からは、雨振り山なる大山がよく見える。

大山のあぶり(雨降り)の神を叱りけん

将軍の歌を読めばかしこし 源実朝

また、南矢名から、前田夕暮は、大山を見て

先と尖る阿夫利の山の彼方なる 真冬の空のすみ深き色

と、歌を詠んでいる。

ここの阿夫利の起源は、渡来人が、韓国語のブリ(先祖から崇めてきた守護神)に吾を、着けて、アブリ、アブリと、渡来人が先祖を崇めたのでは、ないかとする説もあるが、いずれにしても雨乞いの雨降りを願う山であったことは間違いない。

話を秦野から西に向ける、松田氏が居を構えていた松田の更に西には、曽我がある。

ここは、曽我の梅園で有名な地で、春になると梅が美しい。

富士見えて どよめきしばし 曽我の梅

と、ここの梅も綺麗であるが、この梅園から見た富士山も美しい。

梅見に来て、こんな俳句を作ったことがある。

ここは、日本3大仇討ちの筆頭にも数えられ、曽我兄弟の縁のある地、江戸時代には歌舞伎で「曽我もの」としても上演され有名になっているが、曽我兄弟が仇討ちを祈願した仇討起請文が、市内の柳川の不動院にある。

さて、仇討といえば、一富士、二鷹、三茄子、「夢で見る縁起夢の順番、あるいは、富士山は高くて大きく、鷹はつかみ取る、茄子は「成す」に通じて縁起が良い」とも申します。

弘法山から大山に向うところには、鷹取山が、あるが、この辺りは、武将の鷹狩りがあったところと思われる。

伊勢原太田道灌の姿も鷹狩である。

一寸余談が過ぎましたが、本題は、

日本三大敵(かたき)討ちだそうで、

一は、曽我の兄弟の富士

二は、鷹の羽のぶっちがいを紋とする赤穂浪士の浅野家

三は、伊賀上野の荒木又右衛門

皆さんも、どなたかに恨みがある場合には、ここの不動院に祈願擦れことをお勧めしますが、間違っても、浅野内匠頭のような脇差に手をなんてことはなさらぬよう、お願いします。

さて、願い事といえば、秦野では、出雲神社を忘れては、いけません。

その謂れは、伊邪岐命(いざなきのみこと)が、出雲の国に痴呆され、八又大蛇を退治し、大蛇から櫛名田比売(くしなだひめ)を救い、姫を妻に得て、須賀の地に新婚の宮を建てた。

この妻を、ここに籠らせるために詠んだ歌が

八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を

この歌が日本の和歌の始まりとされ、それ以来、和歌は、敷島の道として、日本の伝統文化として伝えられてきた。

しきしまや 大和言の葉 たづぬれば 神の御代より 出雲八重垣(  藤原良経)

世に越えて 猶ぞ、栄えん ことの葉を 神のさだめし 出雲八重垣  (正徹)

さて、秦野市には、て、当地累代の神職であった草山貞胤翁が、出雲の大神の御分霊を秦野市広沢の地に鎮祭し、大国主大神の御神徳を関東地方に広めるため要処としたことも話伝えられる。

草山氏は、二宮尊徳の高弟・福住正兄に学び、農地改革に地域殖産のために、秦野の地を煙草栽培の祖として貢献し、二宮尊徳の報徳精神をこの地に広めたとされています。

明治26年(1895)、二宮翁の崇敬者によって小田原に報徳二宮神社が建立されるや、

注:タウンニュースより

福住正兄の遺命により初代出雲神社の社掌に就任しました。

むかし蒔く 木のみ大木と なりにけり
いま蒔く木のみ のちの大木ぞ

あたかも、鶴巻の大ケヤキを眺めて、この大木のように、煙草産業を大きく育てようと、祈念した歌とも読み取れます。

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注:鶴巻にある天然記念物に指定されているおおけやき、根回り12.5メートル、目通り幹囲10メートル、樹高30メートルの巨木です。天保13(1842)年に記された『新編相模国風土記稿』にもその記録が残っています。

当時、煙草耕作者、は栽培法を秘伝としていたため、品質が均一ではなかった。

そこで草山貞胤は、苗床の改良や正条密植法、木枯らし法による乾燥方法、水車による煙草刻み器等を発案し、それを耕作者に伝授し、秦野煙草の評価を高めさせたと言われる。

このように、秦野の出雲神社と煙草産業の発展にとって、草山さんは忘れては、いけない貢献者である。

さて、出雲神社では、相撲が行われるようになったのも、宮司の草山清和宮司が、晴馬不二との深い縁があり、応援をされてきたとか、

それにしても、日馬富士、あの事件には、草山さんも悲しんでおられるでしょう。

なお、秦野市には、多くの草山を名乗る方が、活躍されています。

例えば、草山司法書士、草山不動産、草山花園、草山歯科等

煙草の話は、更に後に詳述するとして、秦野市に在住した縁ある歌人前田夕暮を触れない訳には、いかない。

夕暮れの生誕地は、南矢名、天狗棋院に近くに歌碑が残されているとか

豪農で、親の久治は、大根村長や県会議員でもあった地元の名士である。

夕暮れは、大根小学校を卒業したことで、大根小学校には、

ひまわりは金の油を身にあびて ゆらりと高し 日のちいささよ

の歌碑が残されている。

大根小学校を卒業した後、金目の宗信寺に在った秦野高校の前身となる共立学校にかよった。

なお、この寺の住職は、森といい、信長と共に、本能寺の変で死んだ森蘭丸の遺影を祀るため近隣の森一族とされる。

さて、夕暮は、南矢名あたりの光景を

私の前は、青田一面、真夏の光の中で、白鷺の連れが数に吹かれる白いハンケチにように飛んでいたと長閑な光景を眺めていたようで、弘法山からの鐘を毎日のように聞きいった生活である。

一里来て鳴りぬ 二里来て 国越えて ほのかに鳴りぬ故郷の鐘

と自分の将来をあれこれ夢想していたと思われ、こんな歌も残している。

菜の花の 相模の国に 鐘の鳴る

明日を夢は 行きてかえりぬ  夕暮

その後、夕暮は、秦野地を離れ、大磯の薬商の家に居候する。

夕暮の父、久治は、夕暮を医者にさせたかったようであるが、与謝野晶子北原白秋等の歌に影響され夕暮は、歌詠みの道を志すようになる。

この頃、

魂よ いずくへいくや 見ののこし うら若い頃の 夢に別れて

と、歌っている。

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我がいとしい魂よ。どこに行くのだろうか。

夢を追って追いきれずに、まだ見果てなかった、若々しい日の、その夢から別れて、さまよう魂よ

とでも訳すのであろうか!

さて、夕暮れの名の謂れであるが、夕暮は、大磯に、移り住んで、歌詠みの生活を始めることとなったが、偶々、訪れたのが、大磯の

鴫立庵の石碑には、三夕の一つと言われる西行法師の和歌が刻まれていた。

心なき 身にも哀れはしられけり 鴫立つ川の秋の夕暮れ である。

この和歌は、西行武家の身から行脚の歌詠みとして大磯の地で、この歌を詠んだとされ、後の小田原の外郎店の店主宗雪が、この地の鴫立沢の標石を建てたものである。

その碑に宗雪が刻んだ文字、「著書湘南清絶景」

の文字により、この大磯の地が湘南の謂れの原点とされる。

その後、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風が鴫立庵主第一世として入庵して以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として、現在第二十二世 鍵和田庵主へと続いていて、現在に至るまで、句会として利用されている。

この鴫立庵は、秦野地域の住民の俳句文化に影響をあたえているようで、渋沢、落幡や矢名の人が、句会に参加していたことが、句集から伺われる。

たとえば、弘法山には、筑波園杉人の歌碑

世をたびにまかせて 華のやどりかな

や、稲毛南風の歌碑が渋沢の水神社の境内に、残されている。

秋は散り 花はもの憂き 初めかな

稲毛南風は、渋沢の人で稲毛丈右衛門、

芭蕉の句碑

涼しさや 直に野松の枝の形 

と、共に刻まれているのが、南風の俳句

涼しさに 思ひ出しけり 松の月

もう一つ、この神社に残される芭蕉の句碑

ほととぎす 招くや 麦の むら尾花 芭蕉

このように、秦野は、自然に恵まれた地のせいか、俳句をたしなむ文化とともに、夕暮のような歌詠みが歌を「はぐくむには適したところであったといえよう。

ところで、西行法師は、秦野とも縁がある歌詠みであるので、少し触れることとする。

1028年に、平忠常の乱があり、これを討伐するための関東に派遣されたのが、源頼家で、初代の鎌倉源氏、この時、国司として赴任していたのが、相模の守藤原公光であり、戦いの恩賞で波多野氏となり、この地に居することとなった。

この公光の孫が秀清でその孫が、吉清で武士を捨てて西行を名乗った。

つまり、西行法師は、波多野氏との血縁である。

この秦野に住んでいた、前田夕暮が、西行の三夕の和歌を詠んで、自らの名を夕暮れとしたが、これは、「自らを西行のような歌詠みとして生きていこう」と、する夕暮れの決意だったと、言えます。

西行の 昔し偲びて ただずめば 鴫立沢に 梅かをるなり 夕暮

その後、夕暮れは、生誕の地に戻るが、不幸なことに、関東大地震で大根村は、大災害、607世帯のうち半数は崩壊し、59人が死亡し、夕暮れの家も崩壊した。

その時に出来たのが震生湖であり、この地震が如何に大きな災害であったかを知らしめる。

なお余談となるが、寺田虎彦は、地質調査官として二回、この震生湖に訪ずれていて、

山さけて なしける池や 水すまし 

の句碑が残されている。

この句碑は、昭和30年9月1日の震災記念日に建てられたもので,小宮豊隆が揮毫したものとされる。

震生湖の名前も寺田虎彦では。ないかとの説もあるが貞香ではない。

さて、話は戻り、前田夕暮の晩年の和歌に、自己の死を予言するかの如き和歌がある。

雪の上に 春の木の花散り匂う

すがしさにあらん 我が死に顔は

前田夕暮と秦野(松邨賀太)の書によれば、昭和26年、69歳の歳、夕暮が危篤状態の時、夕暮の卒業した共立学校の流れをくむ秦野高校は、弘法山に、夕暮れの歌碑を作る計画について夕暮の家に訪ずれて許可を得ている。

夕暮の遺言により、その歌碑は、富士山の方向に向けられ、この歌を託したとされる。

生きること なしと思ふ山峡は

はだら雪降り 月照りにけり

前田夕暮れの息子「透」への遺言は、「歌を残てくれ」で、あったそうである。

その遺言を守り、前田透は東大を卒業後、成蹊大学教授、歌人でもあり、父、夕暮の和歌の紹介と共に,自らも歌人として多くの歌を世に発表し、夕暮の遺言を果たした。

さて、西行が、前田夕暮の原点であると,述べたが、西行に関して、少しだけ、触れることとする。

西行は、崇徳院の和歌の才能を高く評価していました。
保元の乱による院の失脚、崩御に衝撃を受け、西行は、友人寂然法師の元に、歌を贈ります。

ことの葉の なさけたえぬる をりふしに ありあふ身こそ 悲しかりけれ

「世の中が乱れ 和歌の情趣の失われてしまう時代に出会い、我身を悲しく思っています」とでも訳すのでしょうか

寂然からは、歌の返しがありました。

しきしまや 絶えぬる道に なくなくも 君とのみこそ 跡をしのばめ 

絶えてしまった歌の道のその跡を「せめて、あなたと、共に泣く泣く、偲びましょう」と、平清盛との政争に嫌気をさして、西行は、侍の地位を捨て、保元の乱で流刑された崇徳院の流地、讃岐を訪れて、霊を慰めています。

よしや君 昔の玉の床とても かからん後は 何かはせん 西行

さて、敷島といえば、和歌の代名詞であるが、有名な煙草の名品であるのも秦野との縁を感じる。

煙草の銘柄は、本居宣長が詠んだ和歌

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山櫻花」から付けられ、敷島の他に、朝日、大和の煙草、そして、軍艦の名前や神風特別攻撃隊の小隊名にも付けられたことで、敷島、大和、朝日は、軍事的なイメージとして、平和主義者から嫌われ、戦後は、ピース、ハイライト等の名前に一新したのは、周知のところです。

ところで、煙草産地といえば、全国区でいえば、秦野と共に、薩摩煙草ですが、共に火山灰により、米工作には、適していないという共通点があるようです。

秦野南矢名に生まれた前田夕暮も煙草の和歌を詠んでいます。

うつばりに 青き束尾を吊るしたり

そのもとにいて楽しかるべき 前田夕暮

ところで、煙草は、ポルトガルによるキリシタン布教と共に鹿児島に煙草が伝わり、薩摩には、薩摩刻みとか、薩摩煙草とか伝統的な恩賞煙草の配布も西南戦争以来の習わしで、

おはら節の

花は,霧島 煙草は,国分

と、鹿児島小原節にも鹿児島の煙草生産が鹿児島国分と歌われている程です。

未だに、こんな発癌性根源の麻薬を皇居清掃の報酬に参加した地方の方々は、涙を流して頂くという人もいるらしいが、これも、昔語りになるでありましょう。

特攻兵士も天皇からの恩賜の煙草や酒を頂いて死に向かったとされ、

大槻一郎の空の勇姿と言う詩には

恩賜の煙草頂いて 明日は死ぬぞと決めた夜

なんて、天皇のためにと恩賜煙草を有難く頂いて、特攻隊に、飛び立ったそうです。

親も、赤紙が来て息子を戦場に送りだすときに、「御国のために息子がお役に立てば」と、挨拶しなければならないのと同じ

日本も中国支配の手段として、三井物産を通じてイランから中国へ阿片を持ち込み専売制度を作ることにより、多額の収益を得るとともに、中毒による国戦力の低下を推進した政府の政策いわゆる阿片政策があったとされているし、日露戦争の軍資金を賄うために利用されたのも煙草ですから、死を覚悟で天皇様から頂いた煙草を一本吸わせて、はい御苦労様では、安上がりの政策で、特攻隊員は、可哀そうである。

値も高きおおやけ煙草くゆらせば

煙の末に曾禰の顔見ゆ

日露戦争の軍資金を賄うために、天狗煙草などを専売にしたのは、ときの大蔵大臣の曾禰という人だったとか!

それにしても、特攻隊員がこれから死に行くときの吸う煙草では、橘暁覧の歌う、嗜好品の楽しい気分は,得られなかったでしょう。

たのしみは心に浮かぶはかなごと思ひ続けて煙草吸うとき 橘暁覧

それとも、中には、煙草の名前を聞くだけでも体が受付けない特攻隊員も居たでしょうから、そんな人には、代替え品のチョコレートのほうが、良かったかもしれません。

娘のチイが、「それにしても、明治政府の特攻隊員への配慮は、何たるもの」、と、憤慨なさる。

ところが、煙草に関しては、明治政府も良いこともしているんです」と教示しました。

台湾での阿片吸引者の撲滅には、後藤新平が、「煙草を専売制にして、税収を得、徐々に統制していけば、シンペイねえ、シンペイネエ」と、新平が阿片吸引者の撲滅に成功させたと言われていますね!

これも新平が調査させた「台湾アヘン問題の百科辞書」ともいえる実態調査からの政策が効を奏したと言われている。

何しろ情報あっての「ものだね」ですから!

それに、東京大震災後の道路や公園等の復興は、当時の東京市長であった新平の手腕が大きかったと、言われているそうで、東京都を国際都市として築き上げた功績も大きい。

ここで、後藤新平の写真を披露すると、娘のチイが「後藤新平って、恰好良いオジイチャン、白髭は、ダンプテイと同じように白いだけど、品格が違うし、頭の輝きも違いますね」と、こちらの髭に矢を向けてくる。

「人は、大きな人物の謦咳に触れて、人生が大きく変わる」と、いわれますね、新平は、西郷隆盛の謦咳に触れて成長したと語っていますし、西郷隆盛は、島津斉彬横井小楠の謦咳に触れていますね、チイも後藤新平の謦咳に触れて、立派な人になるよう期待していますよ!

と、注文をつけてやった。

この新平さんには、申し訳ないが、煙草嫌いの詩を作ってみた。

煙草という習慣たるや

鼻に忌まわしく

見るのも嫌嫌

肺に害あり、脳にも危険

黒い悪臭を放つ煙は悪の根源

底なし地獄から噴き出る 

悪魔の吐息

ところで、政府も後藤新平では、ないけど、「シンペイねえ、シンペイねえ」と、煙草税を頼りにして、癌原因が明らかとなった。

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今の御時勢でも恩賞煙草は、止めないのは、不思議ですね」といえば、妻のハンプ

自民党の中には、農協団体が支援する煙草農家のことも考えないと、いけない訳ですよ、秦野市だって、煙草祭りをして、葉煙草農家の支援を未だに支援し続けているじゃございませんか」と、いきなり、農家出身の根性が湧き出てくる。

煙草農家の支援や税金対策よりも国民の健康の方が優先されると思うけど、税収を優先するとは、政府内の厚生省と税務署卯との綱引きで、オリンピック前に受動喫煙防止法を推進していた法案も骨抜き状態になってしまうように、どうも、行政のやり方には、一貫性がなくて困ります。

愛煙家の権利も大切にしなくて、「阿久悠さんの「時代遅れの男に成りたい」なんて、ことを未だにおっしゃっているなんて」と、

妻ハンプを反撃すれば、

ハンプも、「マスコミがいけないんですよ、吉田茂マッカーサーチャーチルみたいに、パイプ煙草の似合う男の恰好の良い写真を流して、愛煙家が増加こととなったわけですし、

それに、文芸家も愛煙家が多いようですから、筆の力での愛煙家保護の力が働いていますね,

それに、北原白秋のヘビースモーカーは、有名で、こんな詩がありますね!

煙草ノメノメ 空まで煙せ どうせこの世は 癪の種

白秋は、秦野市の宣伝マン、なにしろ、秦野市歌人前田夕暮北原白秋は、大の友人ですから」と、申される。

ところで、大正、昭和の初め頃には、煙草は、健康に良いなんて、言われたような時代だから、こんな文芸家の歌も受けたでしょうけど、煙草が肺癌の主原因と判明した現在では、愛煙族は、肩身が狭くなって、「煙草ノメノメ」なんて言っていたら、離婚問題に発展してしまいます。

最近は、女性が強くなっているから、マンションのベランダでは、夜になると煙草のみは、蛍属になるとか

嫌煙や あのベランダも 蛍の夜(夏)

ベランダに出て煙草を吸わなくては、それこそ嫌煙の仲 

すると、またまた、誤字を指摘する癖で、チイが「これって、犬猿の仲の駄洒落ですね!

今の時代「煙草を吸っているあなたが好きなのよ」なんて日本中探してもいませんから!

ハスッパ男がスパスパ煙草を吸うのも厭らしいし」と、言う。

何に、「そのハスッパ男」って、蓮っ葉女なら聞いたことがあるけど、とは、何という娘、

時代が変われば言葉も変わる。

蓮の葉みたいに、何にも役に絶たない下品な尻軽女、チイみたいに「役立たないおんなは秋扇」と,いいましょうか、と言えば、

マー、チイみたいな役に立たないなんて、侮辱もいいところ、それこそ

禿げ爺の 頭を隠す 秋扇

なんて、直ぐ、この親父をこらしめてくる

これって、小林一茶が52歳になって、妻を得たときの「恥ずかし嬉しい」の雰囲気

五十婿 頭を隠す 扇カナ

のパクリではないですかと、娘に言うと、 

「これは失礼千万、パクパク脂下がる、お陀仏寸前の金魚様みたいなパクリ様」には言われたくない台詞と、チイが反撃

さらに、「重要な議案は、俺が決めると煙草の煙を天井に、向けプカプカ吹かして、それでいて、質問の答弁は、お役人が作った原稿の棒読みだったりして、の政治家野郎よりましと思うけど!

お役人 煙管気取りで 脂下がり

ところで、「フィルター煙草の時代、もうこんな脂が下がるような煙管もどこを探してもありませんよ、それに、国会審議のテレビ公開時代に、こんな偉ぶった議員は、直ぐ退陣して頂く世の中ですから」と、申せば

そうですよ、家族と一緒のドライブ旅行でも、車の中では、喫煙は、難しくなった時代なのに、車の助手席で煙草スパスパはないでしょ、」と、煙草好きの、息子に面当て

それに、この親父にも

助手席で居眠りありや木瓜のはな(呆けの鼻)

助手席で鼻風船なんか膨らませて寝ていようものなら

「こんな木瓜茄子の役立たず」と、車から降ろされて、道路わきに放置されかねないし、ハンドルを女どもの手に握らせている男にとっては、何かと厳しい時代

ついつい、助手席で、愚痴の独り言

呆けの花 役にも立たぬ  みとなりぬ 漱石

旅行きは、運転種の特権ですから、助手席の親父は、肩身の狭いこと、

まだ、乗せてもらえるだけ、有難いと感謝していただかないと、ドライブを支配している女どもの発言

ゆく春や 同車の君の ささめごと 蕪村

とは、娘の親父への慰めさめか、あきらめか

ところで、今では、煙草も嫌われ者になりつつあるけど、煙草の発見当時は、世界の歴史を変えたともいわれる大事件だったわけで、

煙草は、マヤ文明の遺産とされ、コロンブスにひきつづく探検隊により、マルコポーロの言葉を信じて黄金を求めての日本探しの夢は、実現せず、思いもしなかった煙草がスペインに莫大な富をもたらした。

煙は、元来、神との交信として煙や香りが使われ、旧約聖書にも神の捧げものとして羊が焼き上げられたとあり、仏教においても、線香が仏との交信として利用されたわけですよ、と親父の講釈に

娘チイは、「煙は、忍者がドロ-ンと、雲隠れに使うものとばっかり」と、思いきや、熊坂が突然に登場するからビックリ

霞けり 遍路の道に 熊坂が

と、これは、漱石の句

霞みけり 物見の松に 熊坂が

のパクリですが、娘も人殺しの熊坂長範をよくご存じで感心いたしました。

ところで、「煙が神との交信というのは、富士山の煙とか、浦島太郎の土産物の箱を開けたら紫の煙が出たとかで、煙が関連しています。

香川県は、浦島太郎伝説の地と標榜しているのも、「紫煙出山」と、いう山があるからですから」と、いえば、

娘もこれに答えて、「この浦島が玉手箱を開けて、出てきたのは、紫色の煙、

この煙で若い浦島太郎は、老人顔になってしまったでしょ、煙草を吸うと、老けるというから親父も同じ、老け顔になったのも、昔スパスパやっていた紫煙のせいですね、

あの加山雄三だって、煙草は、吸わないから、あんなに若々しい若大将を保っておられるのに、あんたはなんでしょう。

皺皺三つ皺三つみたいな顔して」なんて、憎らしいこと

いえいえ、この皺は、我が人生の生きざま

皺くちゃの 顔も勲章 秋隣り

元句:節くれの 指も勲章 春隣り鷹羽狩行

と、申せば、また、また、反撃

顔の皺は、筋肉不足が原因だから、顔運動がお勧めよ

上がり目下がり目ぐるーと回って猫の目

と、眼玉ムキムキの「あかべい」をされるから始末に置けない。

それに、「女性の禁煙家も増えていますけど、紫煙は、お肌に悪いですよ」と、女友達に助言させて頂いておりますわ、と女王様気取りで偉ぶっている。

頬杖の 女の紫煙 月見草: 阿南