ハンプティのブログ

ハンプティ・ダンプティのように、いつもずっこけぶりを発揮しています。

ダンプテイ親父 秦野の歴史を語る その2

煙草は秦野の特産、煙草祭りが知られています。

煙草の歴史は古く、一寸、そこのお兄さん、煙草を貸してくださいな、と人と人の交流が始まる文化がありました。

知らない人に対しても「一寸煙を」と、火をもらったりしながら、今日は、どこまでいらっしゃるのかしら?

あら、私と同じね、「それでは、御一緒しましょうか」と、会話が弾むこととなる。

「狼煙も紫の煙」と、言われていますし、狼煙を上げて、他人との交信として利用した古来の文化は、その後にも煙草の煙の貸し借りで、コミニケートする文化として受け継いでいます。

煙草のみでない場合には、

七重八重 花は咲けども 山吹の身に一つだに無きぞ 悲しき 

と、生憎、山吹の実さえないような貧乏暮らしで、刻み煙草の伊吹など、お生憎様です。

と、歌ってあげることとなる。

さてさて、こんな太田道灌の改変歌を披露すると、我が娘

七重八重腹は重ねど 山吹の実の一つだに無きぞ悲しき

のほうが、ぴったりよ!

「ダンプテイのお腹がいくら妊娠8か月みたいの妊娠腹であっても子供は、出来ませんという趣向」の歌だそうで、とうとう娘にまで、妊娠腹と言われたら世は御終い。

さてさて、山吹と子供ができないとは、どういう関係ですかと、疑問に思われるでしょうから、解説を加えますと、屋敷内に、山吹は植えるなと、言いますが、これは、山吹には、実がならないからだそうで、

山吹や 実の一つだに 無きぞ悲しき 

と、いう歌がございます。

こんなことをいうと、娘がいうには、ダンプテイは、山吹ブランドの愛好家ですから子供ができないのは当たり前だのクラッカーと、申されます。

その山吹ブランドとやら、てっきりダンプテイは、山吹は、刻み煙草だと思って、煙草は、そんなに避妊効果があるのでしょうかと、聞けば、きっぱりと、否認され、何のことはない。

御愛用の方は、よくご存知なようで、なんと、山吹といえば、恋人用の高級コントームだそうで!

七重八重 花は咲けども 山吹のみの 一つだにならぬ楽しさ

と,山吹コンドームの箱には、印刷されていたそうです。

それにしても昔のコマーシャルには、頓智がありました、山吹は実がならないことに,かこつけて、この山吹コンドームを愛用すれば、子供(実)はできませんよ、なんてー

ところで、秦野市のお隣の伊勢原に縁のある太田道灌

七重八重花は咲けども 山吹の実の一つだに無きぞ悲しき

美濃の伊吹山の村で、太田道灌が雨に降られて、蓑傘を民家の娘に求めたところ、村娘が、この歌を手向けられ、たが、その意味も分からず、家に帰って、歌詠みに尋ねると

この歌が、「蓑一つだに無きで、お貸しする蓑もありません」という娘の洒落歌であることを知り、恥ずかしくなり、その後、道灌は、和歌の道を勉強したとされます。

それでは、「道灌の和歌の上達ぶりとは如何でございましょうか」とのご婦人方からのご質問

それでは、ダンプテイから、太田道灌の和歌の成長ぶりをご教示いたしましょう。

太田道灌の和歌の道は、如何程かを確かめんと、後土御門天皇から 武蔵野のことを問われると

露おかぬ 方もありけり夕立の  空よりひろし武蔵野の原

と、道灌は、とっさに歌を詠まれました。

天皇は、お返しに

武蔵野は 刈る茅とのみ おもひけるに かかる言葉の 花もありける

そして、天皇が、「短慮不成功」なる語を出して道灌の学問につき尋ねられると、道灌は

急がずば 濡れざらましを 旅人の あとよりはるる 野路の村雨 道灌

さらに、隅田川の都鳥のことを問われると

とし経れど われまだ知らぬ都鳥 隅田河原に 宿はあれども  太田道灌

等、即興で、頓智の効いた和歌を披露される上達ぶりでございました。

さらに、道灌の辞世の句は

かかるとき さこそ命は おしからめ かねて亡き身と 思い知らずば

と、江戸城構築したという、我が人生に満足されて、伊勢原の粕谷の地で風呂に入っているときに、殺害され、最後を迎えられました。

何れにしても、道灌と、いえば、山吹、だから伊勢原音頭でも山吹が詠われている。

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ところで、「煙草一服如何ですか」の話しに戻って、こんなときには、熊坂長範みたいな手を使って、旅人に悪事を働く手口があったそうです。

煙草に火をつけてもらう際に、懐に手を伸ばして財布を抜き取るという手口ですが、この悪事の天罰か、牛若丸が鞍馬山から奥州に煙を撒いて、逃げる際に、熊坂は打倒されますね!

煙草嫌いの娘は、またまた、喫煙家に反発 煙管とは、乗車時と降車時だけ料金を払い途中の無賃乗車、運輸関係者からは、嫌われている。

それに、キセル野郎にはホームを汚されるし、煙草の匂いは、嫌煙者にとっては、癪の種で、受動喫煙を施設まで用意する必要があるJR、無賃乗車たるキセルも癪の種ですね、と、小田急の株を持っている娘の小田急電鉄の肩を持つ発言

そういえば、ロン様こそ、キセル族ですね、帽子と靴に見栄を張って、スーツは古着ですます流儀、何しろ、結婚式の礼服をワンコインで、すましたお方ですからと、旦那の方へ横槍が飛ぶ。

すると、旦那も黙っては、おられぬと、「キセル愛好家で有名なのは、平賀源内ですよ、キセルの火付けライターの発明や煙草が原因で、火事を防ぐための不燃布をしたのは源内,キセル愛好家なればこその大発明をされていますね!

なにしろ、源内さん、植物学者でもあって、煙草の推進派でもあったわけですから、先端技術の発明家でしたよ!

江戸時代だけど、このキセル気取りの源内さんの意気な姿を見てくださいよ!」と、ゲンナイさんの写真をみせる。

この娘が言うには、「平賀源内さんこんな粋なベストを召されておりますが、自ら発明したアスベストが原因で、獄中で悲惨な末期だったのよ、このアスベスト、名前の如く、明日はベストとならず、肺がんの発明品であろうとは、源内さんも生きているうちに知ったらゲンナリされたでしょうね」と、駄洒落が美味い。

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ところで、癌の根源で煙草反対派から忌み嫌われる煙草祭なんて、我が住まいの秦野市も未だに、発癌物質を有難がっての祭も残されているけど、名称変更をしてほしいところ、ピースという銘柄も、あったみたいだけど、煙草祭りという名称で観光キャンペンなんて、平和呆けか、それとも健康呆けでしょうか!

健康管理 マイペース

吹かす煙草は マイピース

ピースピースのマイピース

あれこれ 自慢の指ピース

ピースピースの平和呆け

平和憲法 これピース

地方行政 マイペース

あんたの生活 またピース

煙草と聞くだけで、身の毛もよだつ人が多い世の中なのに、煙草祭りと言って、お神輿担ぐなんて、時代遅れと、日頃のウップンをこの時ばかり発散すると、

娘のチイ、「そんなに怒らないで、落ち着いて、そんなこと非難したら、秦野市民として、地元に住めなくなっちゃうわ、煙草の煙に身の毛もよだつ」と、おっしゃるけど

私は、親父の髭の方が、身の毛もよだっておりますわ」なんて、また、我が髭を卑下なさる。

その汚らしいタリバン髭、そろそろ家族に降伏して髭を落としてくださいよ!

と、こちら様への面当て

「突然に、髭の話題を振らないでくださいよ、我が身で、自由なのは、この髭だけなんですから、何しろ、「我が輩は、髭である」の漱石先生の髭に憧れておりまして」と申せば 妻のハンプ、「明治の頃には、漱石髭よりも八雲髭の方に人気があったそうですね」と、漱石通であることを得意になっている。

そこで、ダンプテイ、小泉八雲の方が人気があったのは、英語の授業だった筈だけど、

確か、八雲が大学を退官させられた後釜は、漱石先生だったけど、八雲に比較して、漱石の授業は、つまらなくて、「八雲立て」と八雲先生の復帰運動があったそうですよ!

と、八雲・漱石騒動のことをご教示すると 妻のハンプ、「きっと、ダンプテイの授業も漱石のように人気がなかったのよ」等と、煙草問題が火を吹いて、終に、私の授業の問題にまで発展して、私としては、危機的状態になってきた。

すると、娘からの助け舟と、思い気や、ますます雲行きが悪くなるばかり「親父の髭があろうと、なかろうと、ダンプテイの髭が、誰に似てようと、世の中が変わるわけでは、ございませんから、マーどうでも良い話だけど、ダンプテイの女好きは、我が家庭の崩壊を招きますから,馬鹿にできません

なせばなす なさねばならぬ 何事も 

と、あの米沢の名君の名言なぞ、口にしては!

と、女問題にまで発展する。

煙草には、癒しがあるから、美女と縁を切るのは、難しいのと同じだけど、ダンプテイの女好き

は、煙草と同じ撲滅しなくてはなりません

なんて、生意気な口を叩く

もうこうなったら、どうにでもなれと、つい愚痴歌が

あなたは私の葉巻なの

日になんども差し入れて

その都度私は燃え上がる

口八丁に手八丁おまけにあそこは足拍子 

訳の分からない歌をこのダンプテイは、ついつい口走ってしまうから家族から嫌われる。

「もうこんな親父は捨てておけ」というのが家族会議の結論とやら

ぐうの音も 出ぬぐうたらの 夏日和 口幅ったい やらホラの口

自分の汚い髭にも、おさらば出来ない人が、煙草好きや女好きに文句を言える立場では、ございませんわ!

未練たらしく、助平髭を生やし続ける哀れな親父、まるで、実朝の最後の世に、金塊集という、素晴らしい和歌集を残されましたがこのダンプテイは、下らない、川柳紛いの俳句と猥談ばかりのエッセイで恥ずかしいったらありゃしない。

そのタリバン髭も実朝様のようにお手入れして頂きたいは、と、またまた、髭にケチが付く。

鎌倉幕府第3代征夷大将軍実朝様と、比較されるから、有難いやら、悲しいやら! 

ここが踏ん張りところで、ダンプテイの能の垂れどころ、講釈を垂れることに

この実朝は、「柿本人麻呂の再来」と、言われるほどの歌詠みで、正岡子規

人丸の後の歌詠みは誰かあらん 征夷大将軍 みなもとの実朝

と、歌にしている程ですから、征夷大将軍の地位ながら、慈愛に満ちた歌人です。

もの言わぬ 四方の獣 すらだにも 哀れなるかな 親の子を思ふ 実朝

チイも負けんとばかり、慈愛の歌もあるけど、武士としての勇ましい歌も残していますね

なんて、もう実朝にベタ惚れである。

大海の 磯も轟に 寄せる浪 われて砕けて裂けて散るかも 源実朝

と、追っかけ娘で、心も実朝様にぞっこん

さらに、この娘、この和歌は、鎌倉に近い大磯の海岸の由来とも推察される歌ですね、大磯が歌に読み込まれていて、チイも実朝様には、心ありません」との惚れ込みよう

山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心我があらめやも 実朝

ところで、武士が世を納める時代でも天皇への忠誠心は、貫かれていたようで

大君の 勅をかしこみ 千々湧くに 人に言はめやも

こんな実朝の忠誠心を親にも少しは頂きたいものと願っても、時代が時代、願うのが野暮のようです。

とりあえず、家族には、我が、時の古典の情報、歴史の情報で喜んでもらうのが、家族から理解される唯一の道とこころ、「他人に自慢して語れるような話ではございませんが」と、前置きしてダンプレイは、講釈を続けます。

東海大の南に金目川、そこに、土屋なる村があり、土屋橋なる橋が架かっている。

この土屋なる地、頼朝が鎌倉幕府を作りし頃、御家人に土屋弥三郎宗達なる人がいて、この地を拠点にしていたところ、

後に、歌詠みの土屋文明は、昭和39年、73歳のときに、この地と自分との関りに関心をもって、この地を訪問しているが、この地に、土屋という住民が今は、絶えて居ないことを知り残念がっている。

土屋村に土屋なのる者なしといふ 幾さすらいの末の我らぞ 土屋文明

この歌の他にも、相州土屋という処と題して、いくつかの歌を詠んでいる。

金槐集読みて知るしより55年残る土屋村見んと来たりぬ 土屋文明

九十過ぎ 足立たぬ日は 詮なからむ 73の今日来たり見む 土屋文明

この九十過ぎとは、さてなんであるかであるが

実朝の金槐集に、次のような記載がある。

相州の土屋なる地に、90余れる法師あり、おのずからむかし語りなどセ氏ついでに、身の起居に堪えずなむなりぬること、泣く泣く申して去りぬ。

時に、老いといふことを人々に、仰せ仕まらせし、ついでに、歌詠みけり

道遠し 腰は二重に かがまれり 杖にすがりて ここまでも来る 実朝

中々に 老いはほれても 忘れなく なにと昔をいと 偲ぶらむ

斎藤茂吉によれば、土屋宗達は、源の頼家の家臣である、とするが、それは、土屋にある芳盛治の縁起には、土屋宗徳開基とあるからである。

かかる宗達の名前は、吾妻鏡や、源平盛衰記にも名がでてくるそうである。

さて、土屋文明のもう一つの宗達に関しての和歌

朽ち法師 憐れみし実朝 同じ山辺に 首捨てらるるまで 幾年か経し

朽ち法師とは、90過ぎの宗達のこと、この宗達を憐れんで,和歌を詠んだ実朝は、3年後に甥の公卿に殺害されて、その首が幾重不明となっていたが、三浦常春がその首を拾い、波多野忠綱に依頼して供養のため、「秦野市田原の金剛寺に葬らせた」と、される。

注:詳しくは、西行と実朝 牧野博行

実朝が右大臣に昇格した祝賀の日、祝いに来る筈の甥の公卿が、鶴ケ丘八幡宮に来ていない。

このとき、実朝は、死を予感したのか、髪の毛を抜いて、歌を詠んだ。

出ていなば 主亡き宿と 成りぬとも 軒端の梅よ 春を忘するな 実朝

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ところで、この土屋宗達と、いえば、謡曲の演目の七騎落、頼朝は、石橋屋の戦いで、真鶴の地で、舟に乗り逃走するとき、八人では、源氏にとって、縁起が悪い(祖父、為義も父義朝も八騎で落ち延びて悲劇な最期となっている)からと、一人を船に乗せず犠牲にさせた話、つまり七騎落であるが、この七人の一人に、土屋宗達が居た訳です。

この残った七騎の一人、岡崎義夫は、伊勢原岡崎に居を構えていた者で、謡曲では、

こんなストーリーが残っている。

土肥實平は、

此人々は君のため、此人々は君のため

龍門原上に屍をさらすとも 實平思ひかね

赤面したるばかりなり、赤面したるばかりなり 

惜しからまじき命かな 何れを選び出さんと 

八人の中で、一番の年配者は岡崎義夫、

「お前が落ちよ」と、命令されると、岡崎、「自分は昨日の戦いで一子義貞を戦士させていて、今日は、命が一つしか残こっていない、土肥殿は二人ではないか、一人下ろせ」と、なって、敵が大勢押し寄せてくる中、土肥實平は、なるほどと、泣き泣き実子の遠平を下船させることとした。

なお、この七騎落ちの土屋三郎と岡崎四郎義実とは、平塚と伊勢原、10キロ未満の距離で、あり、親族であるとされる。

岡崎四郎義実の墓は、岡崎城跡の近くの無量寺とされる。

また、土屋三郎は、平塚市土屋の星光山大乗寺の裏山に五輪の塔が残されている。

なお、岡崎義実の長男は、真田与一義忠で、石橋山の戦いで戦死し、大根村の真田城跡天徳寺(現在、平塚市真田)に葬られている。

また、波多野家氏と岡崎家とも婚姻関係を築いている。

このように、秦野近辺での鎌倉幕府関連の武家の多くが、近心関係を築きつつ、牽制し合っていたことが分かる。

さて、七騎落ちした和田義盛も、秦野に関係していて秦野近辺に居を構えていたとされ、

その義盛の娘が鶴巻の「蛇くぼ」なる地に住んでいて、和田の乱で義盛が戦士したのを悲しんで、お堂を立て、供養したお寺が、鶴巻駅のスーパ三和野前の西光寺とされる。

このように、鶴巻には、源氏の流れをくむ者が、多く住んでいたとされ、代表的には和田を始めとして清水、宮川、武、遠山、草山の名が残ると、される。

なお、和田義盛は、頼朝が静御前を断罪で殺そうとしたときに、頼朝に請うてもらい受け妻としたと言われている。

それでも、静御前は、義経のことを想い偲んでいたか、あるいは

義経を諫めた頼朝をなお、恨み続けていたかどうかは、誰も知る由もないことである。

静御前は、

吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき 

義経を愛おしく想い。

義経のことを恋しいと、静御前が愛している義経を貶めている頼朝に恨みを込めて舞った。また、

しずやしずしずのをだまきくりかえし昔を今になすよしもかな

と、義経様に愛された思いを追慕し、当時の義経の栄華を戻ることを願うとともに、頼朝の行為を憎む心を歌に込めている。

さて、我が居を構える鶴巻は、温泉を抜きには語れない、秦野音頭にも温泉の鶴巻は、三番に登場する

野音頭は茜のたすき

ゆかり湯の里 花の里 サテ

アレヤ鶴巻千両の雪か

桜吹雪がひらひらと

秦野そやそや

デイゴの道で

重ね盃笛太鼓

鶴巻温泉の中でも陣屋は、特に有名であるが、温泉が沸いていた義盛公の別邸に、三井財閥が客人を招くために館を開いたのが始まりで、陣屋の近辺には、今も義盛の末裔が、居を構えている。

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この陣屋は、平塚や大磯が別荘地であったことから、その奥座敷として、「囲碁や将棋を楽しんだり、温泉に入ったり」とのもてなし用の館としてスタートしたと、されます。

囲碁将棋の対局が、行われるようになったのも、このような縁である。

今迄行われたタイトル戦は三百以上。平成二十三年の第五十二期王位戦では羽生善治氏が王位を獲得し、大山康晴十五世名人の不滅の大記録、通算八十勝に並ぶ歴史的偉業を陣屋の松風の間で達成されました。

注:小田急線の開設にあたり、この陣屋等温泉地への客足を期待して、遠まわりとなる、この地に線路を通して、東海大学前駅よりも以前から、ここに、駅を設けました。

これを真似て、陣屋と同様に大きな庭や池を設けた温泉宿を作ったのが光閣園です。

私がこの鶴巻に来た昭和50年代には、結婚式や、大きな宴会場所もあり、大きな鯉が泳いでいる池のある庭園が美しく、庭でのお茶会等が催されていたことを覚えている。

さらに、この家主は、趣味で、男根や女陰の、珍しいものを陳列した、小さな展示場を設けた、趣味人であったようで、この珍博物館に訪問ほうもんすると、主があれおれ、面白く解説をしてくれたことを覚えています。

その後、光閣園は、ホテル形式と、結婚式場等に手を広げたのが災いしてか、経営が行きづまり、今では、その跡地はマンション群となっています。

その後、マンションブームとなって、今は悠々自適なオーナーとなられたでしょう。

何事も、止め時が大切と申します。

煙草もお酒も辞め時が大切、癌を宣告されてからでは、時、既に、遅かりしです。

癌病棟 夜に初雪 降りつつむ

病魔は知らぬうちに、身に降り注ぎますから、煙草も勇気をもって、煙草を吸うのを辞めましょう。

ところで時、既に遅しという電報ギャグがありますか勘違いにもご用心

西南戦争での現地からの電報

「敵兵自殺または降伏する多し、帰るから、迎えに」のつもりで

「テキヘイシサツマタハコヲフクスルモノオオシーー」と、電報を打ったら、「敵兵士薩摩煙草吹くするもの多し」と,誤解されてしまって、誰も迎えに来なかった。

そんなつまらない駄洒落話は、もうこりごり、

チイにとっては、またまた、煙の話ですけど、煙草の産地といえば、ダンプテイの地元の秦野市だけど、毎年、タバコ祭りなんて、時代遅れの祭りを実施しているとか、と不満げ,

秦野の市民としては、時代遅れと言いたくないけれど、ほかには、丹沢くらいしか、観光目玉はないから仕方がないとおもわれますが、と申しても

秦野市も湘南のブランドを得たいと、自動車プレートも湘南にするようがんばっているけど、煙草祭りでは、爽やかな湘南の名前がすたります。

秦野生まれで、秦野贔屓の娘が、こんな発言には、反発します。

「そんな悪口を言ったら、秦野に住めなくなりますよ、市長さんもカンカンになって、家まで、かけつけてきたりして」!

そんなこと、言ったら、秦野のお隣の伊勢原でも同様な道灌まつりも同じですよ」!

伊勢原は、太田道灌が、粕屋の主君扇谷の館で、入浴中に殺害された痛ましい最後を遂げた地、道灌の悲劇の地の縁で、道灌は、街のお祭り男に仕立て上げるのは、道灌も、悲しまれることでしょう。

道灌まつりには、同感できないけど、

秦野市では、秦野に晒首が残された源実朝を祭りにもしているじゃないですか!

注:毎年11月23日に御首塚及び田原ふるさと公園で実朝まつりが開催されます。

実朝の供養や稚児行列なども行われているようですけど、これも、波多野氏が、実朝の首をこの丹沢の麓の秦野に隠し持ってきた謂れを祀りにしいますね!

これはまた、実朝の首塚にも詳しいこと。

と、煽てに乗って、またまた、実朝談話を

秦野市田原には、実朝の首塚があり、

その傍に、書かれている歌碑には、

物いはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ

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注:実朝研究家でもある佐々木信綱の揮毫である。

実朝は、子供もなく、家来であった、和田義盛畠山重忠を詩に追いやった自身の罪に悩まされ、孤独の心が、かかる、親子の哀れさを歌にしていますね

いとほしや 見るに涙も とどまらず 親も無き子の 母をたづぬる 実朝

は、子供の哀れさを詠うものである。

そして、自らの命も北条氏とのいさかいで、長くはないと、察していたと、思われます。

炎のみ 虚空に満ちて阿鼻地獄 行方もなしとい うも悲しき 実朝

鎌倉幕府3代将軍源実朝は、建保7(1219)年1月27日に鶴岡八幡宮への参拝が終わり、階段を下りている最中に潜んでいた甥の公暁に暗殺されます。

公暁は実朝の御首を持ち三浦義村を頼って逃走しました。しかし、義村には北条氏より公暁追討が命じられていたため、公暁は義村の家来に殺されてしまいます。その時以来、実朝の首は行方不明となり、実朝は首のないまま勝長寿院に葬られました。この失われた首を三浦の武将武常晴が波多野で探し出し葬ったのが、東田原の御首塚であると伝えられています。

 武常晴は三浦氏が公暁を討ち取るために差し向けた家臣の中の一人で、公暁との戦いの中、偶然に実朝の御首を手に入れました。その後、何らかの理由により首を主人である三浦氏のところへ持ち帰らず、当時三浦氏と仲の悪かった波多野氏を頼り埋葬したと伝えられています。

武氏の末裔の家系に、この首探しの件が記載されているそうです。

 その後、波多野忠綱が実朝の厚い帰依を受けていた僧、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて御首塚の近くに金剛寺を建て供養しました。

その際、木造であった御首塚五輪塔を石造に代えて、五輪木塔は、現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。

さてさて、こんな実朝談話にあきたのか、

妻のハンプからは、旦那様の首塚は、どこにいたしましょうか!

大根公園の大根川の土手には、桜寄贈がありますから、桜の木の下のでもと、おっしゃる。

桜散る 梢にしたる 行く水の 泡のごときに 消える我かも

梶井基次郎の桜の木の下にではないが、この桜が咲いている、我が主人が満開の花を見て、この桜の木の下には、死体が埋まっている、だから、こんなに桜が綺麗に花を咲かせるのだと、言い伝えられるかもしれない。

それでは、実朝首塚に供養して、最後の締めと、いたします。

毎年4月第3土曜・日曜日に開催される「秦野丹沢まつり」、表丹沢の玄関口の県立秦野戸川公園を会場に山開きの式がおこなわれます。

表丹沢の美しい山並みを背景に、アルプホルン、コーラス、和太鼓の演奏、山伏の演出などにより登山者の安全を祈願し、その後、大倉登山口から塔ノ岳までの集中登山が行われます。秦野在住だった宮永武彦画伯の絵が使われています。

山開きは、登山愛好家が待ちわびた、山開き、アルプスを象徴するホルンの音色が山に響きます。

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ところで、鶴巻温泉の公的温泉弘法の湯には、画伯の美術館がある。

最近は、東京からも、弘法山のハイキングに来た客が、この温泉に体を癒して、帰られる姿が多くみられます。