ハンプティのブログ

ハンプティ・ダンプティのように、いつもずっこけぶりを発揮しています。

ダンプテイ親父 男色を語る

平安時代前は、漢字が主流の時代、源氏物語等の物語は、当時としては、新しいカルチャである「ひらがな文字」での少女主義の光源氏を描がいており、多くの女からもてはやされる美男光源氏の宮殿でのアイドル物語となって、登場する。

ここでは、坊主の世界だけでなく貴族社会でも男好きの風俗も物語の中に埋め込まれているから今晩は、男色を文学から拾ってみたいと、思います。

源氏物語藤壺の章では、光源氏は、藤壺の宮に妊娠させ、腹孕みしおり、藤壺の父に出会って、「いとおしとして、色めかしう、なよびたまえるを女にてみるは、おかしかりぬべき

今風に訳せば、「妻が子供をみごもったゆえ、妻とは、できないけど、義父は、美しくて、色っぽくて、なよなよしているな、女にしたら面白そう」と、光源氏が義父に思いを寄せる心情を語っている。

すると、それとなく、源氏に近寄ってきた義父も光源氏を見て、「婿になどには、おぼしよらで、女にてみばや」と、「色めきたる御心にはおあわす」と、光源氏と同じ男好きの心情を漏らし、きわどい男好き同志の場面をうかばせている。

しかし、光源氏程のモテ男は、男と交わるまでの動機はないから、深入りすることはない。

仮に、近心同士の男色の濃いに発展すれば、物語が俗的なものになってしまうから、これが、紫式部の匠な作家としてのテクニックでもある。

源氏物語は、当時の近親相姦の文化を反映させているが、須摩の章にも、こんな場面が登場する。光源氏のもとに頭中将が右大臣の政治的な対立があるにもかかわらず京から訪ねてきて、一夜をともにして朝になり、

雲近く飛び交う鶴も空にみよ 我は春日のくもりなき身ぞ 光源氏

雲近くで飛んでいる鶴を御覧なさい、私の心はあのように、なんの曇りもなく晴れ晴れといたしております。

これに対して中将は、

鶴が鳴き一人雲居に一人寝をぞ

鳴く翼 並らべし友を恋つつ

「雲の上で啼いている片割れの鶴のようなわたくしでございました。

翼を並べて光源氏様を友のように、恋しておりましたのに」と、源氏の歌をはぐらかし、それとなく、光源氏が恋しいと、男色をほのめかす。

このように、源氏物語の須摩は、男色的なホモセクショナルな場面である。

ところで、平安の貴族社会から、室町の武家社会の中世になると、文学は、雅な和歌の世界から笑いを楽しむ連歌の文化となる。

男色が文学の中で盛んに登場するようになる。

「今夜は、男にしょうか、女にしょうおか」と、いう、両手遣いが犬筑波集の連句に、登場します。

稚児か女か寝ての暁

まえうしろ探るに月の有明 宗祇

日頃の文通も和歌でのやりとりし、いろいろな趣向が凝らされた歌て楽しんでいたのが、平安の文化、この文化は、室町時代ともなると、宗祇等が始めた連歌に発展し男色文化をも笑いに取り入れるようになった。

例えば、同じ犬筑波集ですが、源俊頼は、仲間への花見の誘いにこんな暗号を送っている。

はかなしな 小野の子山田 つくりかね

手をだにもきみ 果てはふれずや

みじめな気持ちでいます。

「山裾の田さえ、耕せなくなったように、貴方は私の手さえ触れてくれません。早く、私を耕して頂きたいわ、まずは花見でもどうでしょうか」と、和歌の中に暗号を込めているのです。

これは折句で、冠沓の文字のみを読むと

「はなをたづねてみばや」に、なり、平安時代の和歌の折句という技法を踏襲しています。

また、藤原兼実は、藤原隆信に歌を贈った

如何にまた 独り明かすか しのぶてふ

ひとはつらしな おもひこりねよ

今夜もどうしても一人で、寝ようとされている。

私に逢わずに我慢されているのは、冷淡ですわ、どうか一緒に寝て頂けないかしら!

「折句の暗号を読み解くと、あいびきの日をたがふなよ(間違えないでね)」と、いうことになる。

これに対しての返歌は、

あかでただ すぐるわが仲 のべて思へ 昼こそあらめ 思ひこめりや

夜、一緒に逢えないでいる二人の仲ですが、昼もあることですから、私のことを想って頂けたらありがたいわ!

折句の暗号は、「明日の日を違えめや(間違えたりしませんたりはしません)」と、いう回答となっている。

連歌師で名高い宗因の和歌で、男色を匂わす有名な和歌がある。

言い交す 中山ひとつへだてたり 命なりけり衆道なりけり  西山宗因

注:西行が老体を鞭うって、小夜の中山の峠を越えて、命がけの旅をしたときの歌 歳たけてまた越ゆべしとおもいきや命なりけり小夜の中山 を踏まえて、老体を鞭打って命がけで衆道(男色)をする世界が歌われている。

さて、このような男色の文化は、どのように生まれたのであろうか、「世界で最も古く、男色をもたらしたのは、ソクラテスであるが、ソクラテスは、男色は、高尚なる美風であるなんて、言葉を残している。

ソクラテスは、恐妻であったから、男の方を、より愛したのかもしれない。

いずれにしろ、ギリシアの古代遺跡で発掘された壷の絵からは、男同士の露わな姿が多く描かれ、男色文化があったことが色濃く残されている。

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ソクラテスの一番弟子プラトンは、その著書『国家』の中で、「性愛とは、男と女、男と男、女と女の3種類があります」と述べて、世界にプラトニックラブという言葉さえ残しており、ギリシャ文化は、同性愛とは、切っても切れない関係なようである。
坪の絵からも想像できるように、ジムで素っ裸の男同士が汗を流し、そのあと寝転がってお互いの体に触れあい、年長者が青少年にさまざまな男同士の愛のテクニxックを伝承したとされ、男性の肉体美がことのほか、美しいものとして尊ばれたのも男色と関係していると、思われる。

このような、文化は、中国文化にもあったようで、弘法太子が、男色文化を留学で学び、仏教と共に日本に持ち帰ったことから、讃岐では、讃岐三奇人の一人と、される。

「弘法太子も筆の誤り」と、弘法太子は、三筆の一人とされるが、色事のほうでも筆使いが有名で、仏教界に改革をもたらした、助平な坊さんであるとされる。

あの言葉の言葉、自由自在の筆使い

弘法様の筆は素晴らしい

弘法様の筆を試めして欲しいと、弘法さんが信者から頼まれても、「女は、駄目です,男だけ」と、頓珍漢な弘法様の返事があったとかなかったとか

弘法様は、書の大家だけど、こんな筆使いでも字を間違えることがあるという諺ですが、これには

表向き、弘法さんは、裏技が得意の筆使い、いわゆる禁じられていた仏門の世界で、坊さんに男との交わり文化を中国から取り入れたわけで、弘法さんは、筆の使い方を間違えたというのが、弘法さんの裏話

弘法大使は裏門 親鸞は表門

と、川柳にもある!

さて、弘法さんに、縁のある善通寺には、我拝師山(がはいしさん)と、いう五山があり、その中の一つは、筆の山、経塚であって、その名前からしても、謂れ深き仏の山

西行もこの謂れを聞いて感慨にひたりつつ

筆の山に かき登りても みつるかな 苔の下なる岩の景色を 

苔の下の岩と言い、筆の山といい、なんかしら、エッチな歌にみえてくるこの西行法師の歌

男色文化は仏門の世界に広く伝わり、僧院では、稚児を養育するのが一般的で、美しい稚児を競争して、育てたとされる。

出家とその弟子」みたいな関係がそこには成立する。

題 仏の道

ほとけの道とは、どういうことでしょう(弟子)

裾をまくってお尻を出してごらん(師匠)

ほとけの道を案内してやるから(師匠)

窓からあちらの山の上を見上げてご覧(師匠)

ほら、ほとけの道が分かったでしょ(師匠)

これがほとけの道!随分と棘の道だね(弟子)

こんな、出家とその弟子の話をしたもんだから、文学に「詳しいチイ「から、クレーム

出家とその弟子倉田百三)」は、親鸞が弟子との間で交わす宗教的なお話しで、哲学的なもの、茶かして頂きたくはないわと申されるが、もっともで、反省、反省、お寺にダンプテイもこもって出家でもしないといけません。

そういえば、出家とその弟子での親鸞の言葉には、

知恵は運命が磨き上げるもの

さみしいときはさみしがるがいい

でも恋をすることはさみしさを和らげてくれる

恋は罪でしょうか

この世で罪を作らずに恋をすることはできない、恋とは苦しいものだよ

だれでも一生に一度は恋をするものだ

人間の一生の出会う関所のようなものだよ

真面目に関所に向かえば、人は運命をしり、相を知る。

というように、とても真面目な書物でした。

一方で、僧侶の世界で、男色を正当化する理由は、僧院に児童を絶やさないため、冬の寒さや老後の寂しさを癒してくれる、男色をしなければ欲望が高まって悟りを開くことすらできない」と、不真面目な山法師の歌が残されている。

冷えあがる 我独り寝の床とはに一稚児ならぬ人ぞ恋しき

ところで、閑吟集には、こんな面白い歌も登場する。

愛し若衆との小鼓は締めつ緩めつ調べつつ音いらぬさきに鳴るか鳴らぬかチチとポポ、いや、鳴るか鳴らぬか 

ここで、音とは、寝るでもあり根でもあるわけで、何かを想像させるエッチな鼓の調べ

小鼓とは、若衆の穴のことであるから、締めたり緩めたり、その旅に音色が違うとは、中々のテクニシャンである。

ところで、戒律と男色の仏教史という本、松尾剛次には、男色のことが詳しく書かれているが、この本での例では、東大寺別当にまで昇り詰めた宋性という坊さんの往生するときの誓文には、それまでに、895人もの男色の経験があったことを自白している。

そのような者が仏教界の高い地位に、出世していることから、いかに中世の時代には、戒律の破壊が進んででいたかが分かるのである。

特に、道子とか稚児と、いわれる仏教界に入る修行僧がターゲットにされ、奪い合いの事件や、上司たる坊さんに侵されることに、精神的に耐えられず自殺に追い込まれるという事件まであったようである。

浄土真宗では、妻帯を公式に認めるようになったのは、法然の他力本願の説法の逸話からとされるが、どんな説法かというと、親鸞は、関白であった九条兼実の娘、玉日と結婚することになったが、この経緯は、兼実が、「私のように日々女性と、交わり、酒肉を嗜む俗人と、酒肉を嗜わない貴方様とで、念仏の功徳に違いは、あるのでしょうか?」と、法然に尋ねたところ、法然が答えるには、「念仏は,自力によるものではなく、阿弥陀様により与えられる他力によるものですから、その功徳の違いは、なんらありません」と、答えたそうで、親鸞が戒律を破ったことも、この法然の考えを踏襲したものである。

だから、九条兼実も安心して娘を親鸞に、嫁がせることが出来たわけである。

このようにして、女も男も同様に成仏できる道が浄土真宗により開かれ、婚姻も容認されるに至ったという次第、目出度し、目出度し。

この辺りのことは、「親鸞世阿弥」 梅原猛に、詳しい。

宗教界での男色の文化は、芸術の世界でのスポンンサーと芸術家との間の関係にも引き継がれているように、思われる。

例えば、世阿弥は、足利義満からの寵愛を受けて、これまで、賤民の娯楽とされてきた猿楽に和歌や漢詩を取り込んで、能楽としての品格ある芸術として完成させ、詩的な霊的な世界観を形成している。

昔は、能役者も絵描きも殿様がパトロンだった。

だから、芸はパトロンが喜ぶものを演じる必要があったし、パトロンから性を求められたら、それに応じることも必要であったに違いない。

昔のパトロンは、芸に精通し、高い文化力をもっていたが、今はどうか、パトロンは、凡ての国民である。

総じて、文化力のない、その他大勢を客として演じ鳴ければならない。だから、その芸の質は、落ちていくのである。

著作物の著作権もいわば、パトロンと同じ、

その著作物にほれ込んでお金を払ってくれる人がパトロン、無料アプリで著作権違反の漫画や小説、音楽が巷にあふれているが、これを放棄したら、パトロンのいない著作者は生活できず、著作する意欲を失い文化が廃る。

中国をはじめ日本の文化は、伝統的に他人の表現を利用することからなりたっていたんですよ

だから、アメリカでの著作権を中国が無視するわけである。

なんて、申せば、娘から

ダンプテイもパクリが多いじゃないですかとの非難、「日本のアニメやデザインも盗まれていますけど、ダンプテイの作文は、表現を利用してるのであって引用してる訳ですから問題ありませんよ」と、お答えした。

ところで、日本の文化も男色文化により進展してきたわけであるがこれも、歌舞伎や謡曲など、男俳優の色気に時の成金や公家等の男がパトロンとして資金援助してきたからである。

世阿弥、親の観阿弥に引き継ぎ謡曲の発展に尽くしたがそのパトロンになったのが、足利義満と義政、特に義満は、優美で可憐な世阿弥の稚児の姿に心を奪われてしまったとされる。

あの、バチカンのシステーナ礼拝堂に描かれた裸像も、ミケランジョロにパトロンがいたからこそ描けた大作なのである。

 

平安時代や武士社会、更には、江戸時代では、男色いわゆる、若い子供との性関係(衆道)が形成されていったのも。僧院での若者の教育等「形での僧侶のパトロン社会が生み出した文化ともいえるわけであり、悲劇もそこには、存在することとなる。

僧侶が稚児を愛し、死に至った歌がある

新羅樹という鎌倉建長寺の稚児白菊が辞世の和歌

白菊と忍ぶの里の人問はば 思ひ入り江の島と、答えよ

私が愛している自休和尚が「白菊は、どこにいると、問うたなら、あまりにも恋の思いに苦しんで、江の島の海に実を投げました」と、答えてください。

江の島の白菊が身を投げたところは、「稚児が淵」と、今でも呼ばれている。

なお、この稚児の自殺を後に、自休和尚も

白菊の花の情けの深き海に共に入り、江の島ぞ嬉しき

と、辞世の歌を残して江の島に身を投げた。

坊主の衆道狂いの逸話は、樋口一葉の日記からも読み取れる

清竜院の稚児嘉平と題して

朝がほのもろき命をもろ共に

あわれとおもへ露の身の上

と日記に書いているが、この話は、

清竜院の坊主が嘉平を愛して、言い寄るが、嘉平は拒絶しとおしていた。

坊主は、「こんなにしてまで、許さぬか」と

自らの股を刃物で切り裂くのであった。

こんな、坊主からの片思いの恋に苦しみ、嘉平は、自決して死に絶えたとされる。

「一葉がこの和歌を詠まなければ、いたたまれなかったのは、自らの平井桃水との許されぬ恋があったからだ」と、される。

注:中康弘通 切腹より

武家時代に入ると増々、男色文化は、広がったが、これは、武将が戦場で女と共にすることが出来なかった理由もあるし、真言宗の弘法太子が中国から持ち込んだとされる男色文化が広まったからでもある。

台記という本では、藤原頼長藤原成親と男恋関係にあったと、自白していますし、藤原成親藤原信頼後白河上皇藤原成親藤原頼長との関係も男恋関係にあったとされている。

それに、世阿弥を寵愛した足利義満織田信長森蘭丸武田信玄高坂昌信や春日源助、義経と弁慶上杉謙信が男色趣味が、その例として言われることもある。

例えば、武田信玄の逸話では、春日源助という男への武田信玄のラブレターが残っている。

「確かに弥七朗が度々言い寄ってきているけど、俺は腹痛といって何にもしてないよ、嘘じゃない、一回もことを交えていない。

「俺は、お前だけを愛しているのに心外だ、信じてほしい、あらゆる神に祈っている。」

この源助と言う男色の相手は、信玄の言行を詳しく書いた甲陽軍鑑という本の著者と、なっているから、信玄のことは、なんでも知っている間柄である。

多くの男色は、所謂、稚児を可愛がるという男色文化で、大将に見込まれれば、出世の道に繋がるわけで、合意の関係が出来上がるわけである。

例えば、森蘭丸と信長との関係

題:信長と森蘭丸

蘭丸:御殿様、御蜜柑一つ如何でしょう!

   信長:そんな山盛り蜜柑では、転んで転がすが如何せん!

   蘭丸:おっとどっこい転がって、蜜柑がボテント転がった

信長:殿の言いつけ守らずば こないになるぞ、それみたか!

   蘭丸:転んで蜜柑を落とすと仰せなら、転ばにゃ、見込みが違います

信長:可愛い蘭丸 今夜も宜しく頼もうぞ

こんな具合に、可愛いい蘭丸との師弟の関係を超えていくのです。

信長が森蘭丸を採用するときから、何か目論見があったようで、信長の傍用事をする若者を採用するに当たって、その質問は、ただ一つ「名をなのれ」の一言のみで、面接をし、その顔姿や身振りのみで、森蘭丸を採用したようだ。

廊下に糸くずを落としておいたが、蘭丸だけが、気がついて塵を拾ってくれたということが採用の理由だったらしい。

こんな心配りができる者なら、自分の身の回りや夜の生活の面倒もみてくれると期待していたわけである。

信長の目論見は見事的中したというわけで、信長は、本能寺の戦いまで、森蘭丸を愛し、此処で共に戦士している。

ところで、主君に忠実になるのも良いけど、行き過ぎると、馬鹿になったものが出てしまう話もある。

中国の専制君子が馬を連れて帰って、家臣に、良き鹿を狩ってきたぞ」と申したら、多くの家臣は、「見事な鹿でございます」と、答えたが、正直ものの家臣が、「それは馬でございます」と答えたために、殺されてしまった。

この逸話から正直者が馬鹿をみるという言葉が産まれたとか!

徳川家康も井伊虎松を草履取りで雇って、その働きぶりから、「お前を今宵からマン(コ)千夜と、命名しようぞ」と、マンコを取り立てて、夜を共にしていたという話もある。

このように、江戸時代になると、男好きという文化が面白可笑しく世間で話題になり、連歌や川柳に取り上げられるようになったわけで、男同士の男色趣味も、いわゆる大衆化されて笑いの大将ともなった。

更に、時代を経て、江戸時代後期になると、男色物と、いえば、外せないのが、井原西鶴の男色「大鏡」が外せない。

万花 色あるをもって自らの枝を失う。

男も色香あり、それにてみずからの命を失う

と、江戸幕府の要職にあった細川主善に仕えていた、右京は、眩い光を放つ絶世の未少年、既に采女という少年と、男色の契りを交わしていた。

主善が愛らしい右京少年と関係を迫るが、右京はこれを拒否して、主善を諫めてしまい、切腹と相成ったわけ。

切腹の場で、右京は,自らの髪を契りを交わした采女介錯の武士に手渡した。

そして、春は花秋は月とたわぶれてながめしことも夢のまた夢

と、辞世の歌を采女に歌った

感極まった采女は、その場に飛び出し、右京に、兄様と泣き叫ぶ

それを振り切って、右京は、介錯人に促されて腹を一文字にかき切る、采女も、頼むと声をかけてその場で腹をかき切って」その場に倒れた。

デバラ:男色関係は、仏教関係での僧侶と稚児との関係、武家社会では、お殿様と家臣との関係、商家では、旦那とデッチとの関係、能師等芸人は、スポンサーとの関係など、主従関係で、否応なしに男色関係で侵されるという時代だったからこそ、その関係を逆らってもそれを拒絶して悲劇を招く物語が成立する。

芭蕉も若い頃に、伊賀上野の城主の分家藤動家に稚児として奉公しており、当時の文化として主人(宗房)との間には、男色の関係になっていたと,推察されるのは、この二人の連句

いとも静かな舞の手くだり 蝉吟(芭蕉

見かけより気はおとなしき小稚児にて宗房

それにしても、芭蕉が言う、舞の手下りとは、主人の相州の手技が静かでやさしかったとは、エロチィクである。

そして、主人の蝉吟は、芭蕉の気は、おとなしい、稚児であると、男色として芭蕉を愛している。

我も昔は衆道好きのひが耳にや 芭蕉 

と、芭蕉が若い頃に歌に詠んでいるほどで、芭蕉も自分が衆道好きと,「貝おほい」で自白し、こんな二つの句を作っている

紅梅の蕾は赤いこんぶくろ

兄分に梅を頼むや桜稚児

梅は、男色の象徴ですから、まことにフザケ俳句ですが、これは芭蕉に限らず、当時は男同士のセックスも当然のように行われる文化であったといえましょう。

ところで、主人の良忠(蝉吟)と芭蕉(宗房)の二人には、こんな男色を匂わせる連句がある。

年玉をいとう マタマタ申しつけ 蝉吟

師弟の睦(むつつ) 長く久しき 宗房

と、主人蝉吟が芭蕉に性関係を求めることを「お年玉をお願いします」と、言っていて、二人しかわからないような子弟の恋の関係が読み取れる仲の睦まじさが読み込まれている。

また、芭蕉には、

梅柳 さぞ若衆かな 女かな 芭蕉

笈の小文で、芭蕉の弟子の杜国と旅をした記録を残しているが、芭蕉は杜国この杜国について述べている。

伊良湖岬にて契りおきし人(杜国)の伊勢にて出迎え、共に旅寝の哀れをも見、我がために童子になりて、道お頼りにもならんと、万菊丸と名乗るーー

そして、芭蕉は、この万菊丸という少年の寝姿を

寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしく 芭蕉

と、肌を寄せ合い温め合う男色の関係があったと、思われる。

杜国の鼾が煩さかったけど、二人は、同じ「部屋で寝ることとなり、ほのぼのとした愛を感じていたのは、なにやら芭蕉の男根にも見えるような杜国の鼾の形を描いて杜国を笑わせていたことからも分かる。

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そして、杜国の旅の中では、

一つ脱いで 後ろに負いぬ 衣替え

と、意味ありげな脱衣の様子と、男性同士の性交の様子を匂わせる句をつくっている。

杜国と別れるときには、

白芥子に はねもぐ蝶の 形見哉

と、いうエロチックな句

また、芭蕉は、奥の細道での山中温泉では、温泉の宿の亭主が18歳の美少年

この少年に桃妖という怪しげな号を与えて、

桃の木の その葉散らすな 秋の風

と、歌を進呈している。

この名前も妖艶であるが、別れる時に、贈った歌

湯の名残今宵は肌の寒からん 芭蕉

と、肉体関係を求めているような意味ありげな句を作っている。

しかし、芭蕉の名誉のためには、少年だけでなく、少女も愛でていたことも付け加えましょう。

芭蕉奥の細道であった「かさね」と、いう美しい娘をみて歌った。

いく春を かさねかさねの花ごろも 皺よるまでの老いもみるべく

「こんな美しい乙女、かさねて年月を経て、皺がよった老いの顔もみてみたい」という趣向ですね!

しかし、芭蕉は一生結婚しなかったのは、謎である。。

ところで、奥の細道での其角との旅でも、芭蕉と其角の二人は、男色の関係にあったのではないかの説(嵐山光三郎)もあるが、これは、確かではない。しかし、芭蕉が男色趣味があっただけに、寂しい二人だけの添い寝では、芭蕉から求めがあれば、其角は、喜んで師匠のために尽くしたと、思われる。

武士社会での男色文化は、葉隠れの性や鹿児島等九州の武士に引き継がれたようである。

葉隠では、武士における衆道は、命がけのものが最高とされているほどですね!

武士道とは死ぬこととみつけたり

注:氏家幹人は「武士道とエロス」で「戦術としての男色」を挙げ出世の手段や戦術、或いは軍団の団結強化として男色の役割があったとしている

このような武士の衆道の習いは、鹿児島藩に受け継がれていて、若者と少年との愛は強い武士を育てると、信じられ、鹿児島の少年に愛読された義兄弟の契りを結び、忠義を尽くし、生死を共にした二人の物語

薩摩には、硬派の男は男色が当たり前という風習が明治まで残ったのも西郷の影響があったと思われる

花房四朗の「男色考」という本には、(男色)は「九州、特に薩南の健児は、今もなお、男色を好む」と、書いてありますし、薩南見聞録(本富安次郎)の書にも同様なことが書かれています。

薩摩は男好きが多いといわれたが、西郷の片腕といわれた桐野利秋も独園という和尚にこんな狂歌をおくっている

三千世界の烏を殺し主と添い寝がしてみたい

すると独園和尚

そんなことでは、天下はとれません

三千世界の烏と共に主と添い寝がしてみた

西郷は主君として慕っていた斉彬の死に遭遇して後追い自決の意思を硬めていたが、月照の説得で命を留めたのは、

「殿の遺志を継いで日本を立て直すことこそ、あなたが殿の報いに答えること」の一言だったそうです。

デビル:西郷に男同士の恋があったとは、いえませんが、「敬天愛人」の精神を貫いた西郷の人を愛する心が月照との心中事件では、なかったかと思いますね!

敬天愛人」で、西郷隆盛の大切にした言葉を象徴するような事件が月照の事件ですね!

友の憂いに我は泣き 我が喜びに友は舞う

人生意気に感じては ともに沈まん薩摩灘

と、西郷と月照との間には恋があったとは「思えないが愛があったことは確か

「天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって、人を愛するなり」と、月照も愛した。

青々と美しき君のかんばせ

遥々と君を慕うわが心

ひたすら君あるがゆえに我

胸深く 君を想いつつ今日まで

さあ 今宵こそ 君と共に

月照も西郷を慕っていたと思われ、

月照が船の中で最後に西郷にしたためた歌は

大君の ためには何か 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

大君は、勤王としての志を歌ったものであるが、西郷とも思える。

恋と愛との定義によれば、西郷は月照を愛していたけど、恋していたわけではないし、明治天皇も西郷を愛していたけど,恋していたわけではない。

つまり、そこにはセックスを求めていた関係が恋であり、そうでない、他人への慈悲があった場合は愛である。

西郷の名言に、「己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを常に、尋ぬるべし。

我を愛する心を以って人を愛せ、自己を許すが如く人を許せ、人を責めるが如く自己を責めよ」と、人を愛する心が西郷の行動の基と、なっていましたから、西郷には、性の伴わないプラトニクな愛であり、純粋な男同士の愛であったと、思われる。

これは、明治天皇が、西郷の男ブリを心から愛し続け、国家の大罪人とされた西郷を上野の銅像に「まで祭り建てるという愛であり、明治天皇の乃木大将との愛の関係でもある。

葉隠れの精神は、三島文学にもむすびついているように思われる。

例えば、三島の作品に禁色がありますが、ここには、三島の男色の匂いが隠されているように思われる。

三島の自決や事故の肉体を美として表現する姿は、男色だという考えも指摘されるが、この指摘も「人の集まりで、三島は、銀行の頭取とか会社の社長から電話がかかって来ると、いそいそと出ていってしまい、そのときに、わざわざ、「俺はホモでな」と三島が言ったとの逸話が残されているそうである。

注:杉浦明平 闇と笑いの中

それに、三島由紀夫は、割腹自決したとき、男仲間に自らの首を切らせている。

そんなところに男同士の裸の仲間関係を予感させている。

ここには、三島のエロチックな世界と男色の匂いを感じずには、いられない。

これは、男色趣味であり、この自決の最後の散る桜の日のための自らを肉体改造し、筋肉美がクライマックスとして自らを美化させ桜の木の前に恰幅して手折れ、友の手で自らの頭を切り取らせるという、残酷な最期の自分の見せ場を世間に披露した。

三島の肉体の美の追求は、ギリシヤにおいてはプラトンパイドロスに描かれているように、男同士の肉欲極まる愛を美徳とし、男好きの青年の成長の結果として、戦場での愛国心とも結び付けたようにも思われる。

この辺りのことは。深入りしたくないけど、プラトニックなラブで、性的な交わりを超えた肉体美や精神的な恋ということかもしれない。

三島の自決に関しては色々と、言われているが、自らの若いときの作品があまりにも、高い評価を受け、その後にその栄光を継続できなく、外見から自をとり戻すべく、肉体美を求め、「吾が肉体は美の神殿」なるヌード集を発表したり、「人間は、肉体が美しいうちに自殺しなければならない」と、発言したりしていたが、世を騒がせていたが、それを自らの美学として実現して世を去ることとなったともいわれている。

硬い話となったが、民衆の間で広まった歌の中にも男色文化が反映されたものが多いのも面白い。

例えば、ダンプテイの故郷では、

高い山から谷底みれば瓜や茄の

花盛り あれも良い これも良い

おやまかどっこいヨーイヤナ

藤の山ほど話はあれど

ぎっちょんぎっちょんぎっちょんちょん

主は西行後ろ向き

の歌を思い出します。

座敷歌でも昔は、詠われていたらしいが、どうやら性的なもので、西行坊が後ろ向きとは、男色の文化でのセツクスであり厭らしいことを茶化して歌にし、民衆は楽しんでいたのであろう。

「山の上から谷底みれば」は、横浜でも維新版としてバージョンアップされて詠われている。

野毛の山からノーエ 

野毛の山からノーエ

野毛のサイサイ 

山から異人館を見れば

鉄砲担いでノーエ 

鉄砲担いでノーエ

お鉄砲サイサイ

異人館での外人相手の遊郭を茶化しているから、鉄砲は、あれであるに違いない。

 ところで、比較的、新しい文豪としては、菊池寛が男色であったと、言う話もある。

高松一中のとき、この男食相手の泥棒の罪を被って退学したという経験を有し、自分の人生を犠牲にしてまで、男を愛したという

こんな事件のために、同級生仲間であった芥川龍之介は、東大に進んだが、菊田寛は、東大にいけないで、苦労することとなる。

若い時の苦労が彼を春秋の設立と芥川賞直木賞菊池寛賞を設立して貧しい小説家の育成に尽力することになった。

「貧乏は、思い出になっても嫌である」と、菊池寛に言わしむるところ、それでも苦労して、新人文芸家を多く支援した業績は、素晴らしい。